![]() |
-63- 四十五歳の多感 (14) |
![]() |
四駆のドアを開けたとたん、雛田は大きなくしゃみをした。鼻腔が妙にもぞもぞする。花粉症の季節でもないのにと、車の屋根に手を置いて周囲を眺める。 彼が車を止めたスタジオ専用の駐車場には、十六台ほどの駐車スペースがある。周囲は背の高い木々に囲まれ、早起きの小鳥たちが枝の上で楽しげにさえずっている。 スタジオの敷地は、林の中にぽっかりと空いた広場のようなところにあった。車道や搬入口など舗装は最低限に抑えられ、大部分は短く刈り込んだ芝生が綺麗に生え揃えられている。 「はーっくしょい!」 雛田はふたつめのくしゃみをした。どうやら空気のせいらしい。特有のにおいというか湿り気というか、およそ感じたことのない物質が含まれている──彼にはそう思えた。悪いにおいではない。それどころか吸えば吸うほど身体の中にすがすがしさが広がっていく。相棒の結婚式で訪れて以来の軽井沢だが、こんなはずれまで来たことはなく、彼の嗅覚にとっては初めての経験であった。 グラストンベリー・スタジオは、そんな敷地の北寄りにあった。彼は車のドアを閉めると、ゆるめていたネクタイを締め直し、玄関に向かって歩き出した。 スタジオは三棟の建物で構成されていた。正確にはそのひとつ、ノコギリ刃のような大胆なデザインの屋根を持った左端の建物がレコーディングスタジオなのだろう。手前、南側に壁はなく、数本の太い柱に支えられた分厚いガラスが全面に張られてあり、開放感を大いに演出している。 他の二棟は住居らしい。平屋のスタジオに対して、どちらも二階建てだ。片方が職員用、片方が宿泊者用か。 雛田はガラス越しにスタジオの中をのぞき込んだ。受付カウンターや、ゆったりとしたミーティングルームのような部屋が見える。人の姿はどこにもなかった。 まだ朝の六時半。誰も皆、まどろみの中なのだろう。 雛田はガラスを背に、芝生の上に腰をおろした。 静かだった。喧噪の東京とは別世界だった。 高い空。心地よい風。空気のにおいも今はうまいと感じられる。 彼の乗って来た四駆、ハイラックスサーフの向こう側に、大小三台の車が止まっている。一台は清香の車だろうか。彼は記憶をまさぐる。もらった手紙のどこかに愛車について触れられていなかったか。確かあったはずだ。車種は……レガシィツーリングワゴンの昨年のニューモデル! 立ち上がって目を眇める。奥行きの長い一台、ガーネットレッドの車体が見える。たぶんあれだろう。 ──清香は、この敷地の中にいる。 雛田の心臓は早鐘のように脈打った。 (彼女は、僕の娘……) 昨日までの彼には思いもよらないことだった。 いや、彼女からの手紙を読むたびに、こんな娘が我が子であったらと考えないではなかった。しかし夢想するのと、実際にそうなるのでは天と地の差がある。 (何とも言えない気分だ) 雛田は両手で髪を梳くと、背中をガラス戸にもたせかけた。その時──。 どこからか弦楽器の奏でる音楽が聞こえてきた。 彼は後ろを振り向いた。 この中だ、中から聞こえてくる。 雛田は玄関へと走った。 エントランスは幸い施錠されていなかった。彼はためらうことなく、屋内に足を踏み入れた。 弦の音は聞こえなくなった。しかし彼は確信を持って断言できた。あれはアルパの音だ。清香の弾く音だ。彼女は今このスタジオにいる! 一度は落ち着いた心臓が、また激しく鼓動し始める。 彼は次々と扉を開いては前に進んだ。 そして半開きの扉のひとつから漏れる音を彼の耳はとらえた。彼は中に飛び込んだ。 「清香ちゃん!」 彼の目と耳に飛び込んできたのは、部屋の暗さと、耳を覆わんばかりのアルパの音だった。 そこはコントロールルームだった。幅の広いミキシングコンソールが右手中央に設置されてあり、暗い中で赤や緑のランプが規則的に並んでいる。 彼は右に首をめぐらせた。大きな窓ガラスが嵌め込まれた向こうは録音スペースになっている。そちらが比較的明るいのは、間接照明によるものだろう。 (どういうことだ? 誰もいないなんて) 雛田は二、三歩、部屋に足を踏み入れた。アルパの演奏は依然続いている。彼は狐につままれたような顔であたりを見回す。 コンソールの上では、緑のインジケータがせわしなく上下動を繰り返していた。どうやらこの演奏は録音したものを再生しているだけらしい。彼は手を伸ばしてメインフェーダーを探り当て、音量を小さくした。 コンソールに両手を付きながら、ふーっと息をつく。 「おじさま?」 背後で女性の声がした。雛田は反射的に振り向いた。 暗がりの向こう、部屋の片隅で、黒い影がむくむくと立ち上がった。 「清香──ちゃん?」 黒い影は人の形になり、ゆっくりと近づいてくる。 雛田は、コンソールの放つ光に照らされ浮かび上がった顔を見た。 まぎれもなくそれは、影松清香だった。 幽霊のように現れた彼女の顔には、くっきりと涙の跡が刻まれていた。 |
[TOP] | ![]() |
[ページトップへ] |