Jamais Vu
-62-

四十五歳の多感
(13)

 それは何とも形容しようのない光景だった。
 影松の身体は、元の姿より二割ほど縮んだように見えた。露出している肌は、首から上とYシャツの手首から先だけだが、どちらもほぼ土気色に変色していた。もしこれが自分の相棒ではなく赤の他人だったなら、ホラー映画でモンスターに遭遇した不幸な人間のように、わめき声をあげながら四つん這いで逃げていたかもしれない。それほど影松は、世にも奇怪な姿に変貌していたのだ。
 しかし彼はまだ《人間》だった。彼の上半身は輝きに満ち、包み込むような優しい光が彼の人間としての尊厳をつなぎ止めているように見えた。
「……朝陽とは、これほど美しいものだったのか」
 彼は呟いた。雛田はフロントウィンドウから外に目をやった。
 影松に降り注ぐ光の正体は、たったいま山裾から顔を出したばかりの太陽光だったのだ。遮るもののない青空、生まれたばかりの曙光は、冷えた空気を貫いてまっすぐ影松の胸や顔を照らしていた。
「……空を見上げる余裕すら……なかった俺の人生だったが……最期の最期に……祝福してくれてるようじゃないか……なあ、雛田」
 雛田は流れる涙を拭おうともせず、ただウンウンと頷くばかりだった。
 言葉を発するたび、影松の唇や頬からぼろぼろと砂粒が落ちていく。服の上からではよく判らないが、彼の左手はすでに付け根から離れ落ちているようだった。
「……俺を看取ってくれるのが……お前で良かったよ」
「ハ──ハハ、綺麗どころを数人、帯同するべきだったかな」
「……そういうのは……もう飽きたよ……お前に譲る」
 影松は微笑んだようだったが、よく判らなかった。
「雛田……俺の遺言だ……よく聞いてくれ」
 雛田は深く頷いて、相棒の土人形のような顔に自分の顔を近づいた。
「……清香を助けてやってくれ」
「判ってる」
「……彼女を連れて、一刻も早く長野を脱出するんだ」
「お、おう」
「……今日から……お前が父親だ。いいな?」
「ああ」
「……俺の預金口座の情報や暗証番号などは……うう、そのカバに教えてある……遠慮なく使ってくれ」
 影松はPAIに視線を送ると「カバ公、今後は雛田に……お前へのアクセス権限を委ねる……いいな?」
 カバはフゥ〜ンと蚊の鳴くような返事をした。影松は視線をゆっくりと雛田に戻す。
「このカバ公には……清香がお前と……碧の子である証明書類も……うう、全部記録してある」
 雛田は相棒の最期の姿に胸を打たれた。もはやいつ砕け散ってもおかしくないはずだ。こうして話している間にも、耳たぶがこそげ落ち、右手首が床に落ちた。彼の精神力か、持って生まれた《生》への執着心のなせる技か、そんな強い力が今の彼を支えているのだ。
 雛田は笑顔を作りながら、相棒の濁り始めた目をのぞきこんだ。
「よく判った。あとはちゃんとやるから安心してくれ」
 しかし影松にはもう聴き取る力がないようだった。
「……そうだな。よくやったよなあ……俺たち……思い残すことはない……」
 影松の目から光が失せ、上体が斜めに傾いた。雛田はあわてて抱きとめようとしたが、影松は驚くべき気力で姿勢を支えた。
 そして突如、目に光がよみがえると、次の言葉が最期の台詞になった。
「いいか、雛田。怪我だけはするなよ!」
 次の瞬間、眼球は完全に土と化し、影松の頭部は首の付け根から横滑りすると、前のめりに落下した。
 雛田はそれを両手で受け止めた。
 首から下の部分は、細かい砂粒となって床の上に散乱した。
 雛田の手の中に残った無二の相棒、影松豊の頭は、わずかに笑みを浮かべた表情をとどめていた。

 少し車を進めたところで雛田は二十四時間営業のコンビニを見つけ、食品包装用のラップフィルムやドライアイス、大きめのクーラーボックスを購入した。
 車に戻った雛田は、上着に包んでいた相棒の頭部を、崩れないようラップで包むと、ドライアイスを仕込んだクーラーボックスの中に、ていねいに安置した。
 どうしようという考えがあったわけではない。ただ、できるならどこかちゃんとした場所に埋葬してやろうと思っただけだった。
 ふと、影松がなぜ車を止めさせたのか、雛田はその理由に思い至った。
 相棒は、自分の惨めな姿を清香に見せたくなかったのだ。急げばあるいは彼女の顔を一目見ることができたかもしれないのに。
 それはきっと、影松なりの愛情だったに違いない。清香が実の娘ではなかったとしても。

 カバのナビに案内されて、四駆は国道をそれ、細い道に分け入った。しばらく砂利道が続き、それを抜けると、雛田はとうとう目的地である音楽スタジオにたどり着いた。
 車の液晶時計は、六時十分を指していた。



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