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-61- 四十五歳の多感 (12) |
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四駆がスルスルとスピードを落としていく。相棒に、足、足と指摘されて、雛田はようやくアクセルから足を浮かせていたことに気づいた。 「カゲ! こんなときに、冗談が過ぎるぞ」 「駆け出しの三流放送作家でも書かん、ありふれたツッコミを入れるな。瀕死の人間が、いまわの際にこんな冗談を口にすると思うか?」 ピンクのカバ──影松のPAI──が、《次のインターチェンジで降りてー》と指示を与える。物悲しげな声がご主人様の運命を哀れんでいるようだ。 軽井沢方面への出口を示す標識を頭上に見上げながら、雛田は相棒の言葉を否定する。 「ありえないぞ。そんな話、信じられない」 「事実だ。同じことを二度も言わせるな」 「あ、判った。自ら父親失格の烙印を押して、僕に父親業をなすりつけようという魂胆だろう」 「むりやりな発想だな。まあ失格であることは認めるが、それとこれとは別だ」 四駆はインターチェンジに入った。アールに沿って道なりに走る。遠望されるのは浅間山か妙義山か。 幸いにも、料金所に暴徒の姿はなかった。道路公団の係員すら見えず、四駆はスピードを上げてレーンをすり抜けた。 影松はまた咳き込んだ。膝の上が真っ赤になり、ザラリとした砂粒が足許にまでこぼれ落ちた。 雛田は泣きたくなる気持ちを精一杯抑えつつ、ひたすら目的地へと急ぐ。もはや制限速度も気にしていない。 「うー」雛田は頭を振った。「どう考えても不可能だ。だいいち計算が合わないじゃないか。碧が──碧さんが僕と別れてカゲと結婚するまで約二年。清香ちゃんは結婚式の時、確かに碧さんの大きなお腹の中にいたんだ」 「……謝るよ。すまなかった」 「?」 「碧の臨月の腹は、作り物のハリボテだったんだ」 「──どういうことだ?」 「聞いてくれ。当時売れっ子になりつつあった俺たちカゲヒナタのひとりと、かたや若手注目株の美人ピアニストの結婚に、マスコミの耳目が集まっていた。そんな状況で、彼女の娘の父親が、結婚相手の男性ではなく、その相方であるとなれば、好奇の目から逃れられまい。少なくとも碧はそう考え、娘の将来をおもんばかって悩み、決断したんだ。お前を含めて世間の目を欺くためにな」 雛田は眉間のあたりが痛くなった。運転しながらでは考えがまとまらない。思いついたままの質問をぶつける。 「清香ちゃんは、いつ生まれた?」 「お前と碧が別れた九ヶ月後だよ。大きくて元気な赤ん坊だった。母親も身長があったからこの子も大きくなるだろうって言われたな。……そんなわけでお前には悪かったが、一年間彼女の存在を隠していた。並大抵の苦労ではなかったが、碧も苦渋の決断だったんだよ」 そういえば、清香のCDをかけた時、影松は彼女の年齢を『二十三だ。いや違う、二十二か』とあわてて訂正した。彼の中では清香の実年齢と公称年齢が常にぶつかっていたのだろう。 だからといって納得できる話ではない。 影松は続ける。 「碧は結婚式を終えると、すぐにパリへと旅立った。そのまま向こうで過ごし、出産したことになっているが、そのじつ一年前に生まれていた清香との生活を始めたんだ」 「僕はずっとだまされていたのか……。滑稽だな」 「お前だけじゃ……ないさ」影松の声はますますか細くなる。「清香も知らないことだ」 「なんだって?」 危うく四駆をガードレールに接触させそうになる。 「そうなんだ。俺は何度も碧に言ったんだがな。せめて清香には打ち明けてやれって。碧は頑として受け入れなかった。清香は繊細だし、今さら真実を話してもショックを受けるだけだ。それならこのままで十分だとな」 雛田は理解できなかった。碧はなぜ娘の出生を偽ったのか。やはり自分との別れが尾を引いていたのか。 「……そもそもカゲは、相方の子を身ごもる彼女と、納得ずくで結婚したのか?」 「今度は俺が矛先か。……答えは《もちろん》だ。碧から相談を受けてるうちにな。……知ってのとおり、ここ長野の穂高町の旧家で生まれた彼女は、古風な考えの持ち主だったから、娘に父親がいないことに悩んでいた。俺はお前とやりなおすことを何度も勧めたが、彼女は修復は不可能だと首を横に振り続けた」 雛田の心は激しくかき乱された。若き日の姿を思い出す。喧嘩の原因は、本当にささいなこと。取るに足りないことだったのだ。なのに自分は口汚く彼女を罵ってしまった。若気の至りというにはあまりに恥ずかしい過去だ。 「……でもな、碧はお前に未練があったんだぞ」 「いいよ、そんな話は」 「いや、いま伝えておかないと次の機会はない」 雛田は無言で前を見つめる。四駆はカバのナビに合わせて軽井沢バイパスへと入った。 「もうすぐ到着だ。清香ちゃんには自分の口から本当のことを告げるんだな」 「無理……だ」 その声は、もはや人間ものではなかった。 「弱音を吐くな! おいカバ、到着までの所要時間を教えてくれ」 しかしカバは応えない。そう、PAIは持ち主つまり飼い主以外には反応しないのだ。 「……とめて……くれ」 「どうして!?」 「……いいから」 雛田は、チクショーと怒鳴るとブレーキを踏み、道路脇に車を停めた。 長年連れ添った相方が──幾多の苦難を共に乗り切り、困った時には手を差し伸べてくれた相棒が、いまその生涯を終えようとしている。 「僕にできることは、何もないのか!」 激しい絶望感が彼を襲う。 「ヒナ……」 頬を濡らしながら、声の方に顔を向ける雛田。彼の目に、影松の顔が突然、神々しいばかりに光り輝いて見えた。 |
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