Jamais Vu
-58-

四十五歳の多感
(9)

 さざ波の音が鼓膜をくすぐり、内耳に深くしみ込んでいく。まるで貝殻を耳にあてた時のように。
 ──違う。
 これは誰かの弾く生ピアノの音だ。
 まるで眠り人が呼吸するように、寄せては返す、穏やかで滑らかな音符の流れは、ほど良い装飾音とも相まって、彼に春先の岸辺を連想させた。
 ──この曲には聞き覚えがある。
 眼前の靄がすーっと晴れていく。
 最初に目についたのは、巨大なガラス越しに見える湖畔の風景だった。夕陽に照らされて、幾艘ものヨットが、うたた寝する水鳥のように静かに揺れている。
 彼はガラスに囲まれた内側に視線を移す。鉄骨のアングルに支えられた高い天井も、周囲を囲む壁面もすべてがガラスで構成されている。彼はこの場所に見覚えがあった。
 ピアノの旋律は途切れることなく流れている。誘われるようにゆっくりと首をめぐらせると、ガラスハウスの中は、正装した大勢の紳士淑女で満ちていた。彼らがそれぞれに囲むテーブルには一流の料理とワインが供されていた。
 そう、ここはホテルのオープンテラスなのだ。
 彼の視線がピアノをとらえた。
 演奏しているのは──春山碧だ。
 やっぱり、と彼は微笑んだ。
 これは碧の初めてのディナーショーなのだ。
 富士山頂で御来光を拝むという元旦放送の番組ロケでやってきた雛田は、収録を済ませると影松とは別行動をとり、この湖畔のホテルで骨休みをしていた。たまたま廊下を歩いていて耳にしたピアノに心を惹かれ、こっそり足を踏み入れたのが、運命の出会いとなった。
 雛田は、優雅にピアノを弾く碧の姿に魅了された。ディナー終了後、楽屋に彼女を訪ねたのも彼にとってはごく自然な流れだった。驚いたことに碧は彼を知っていた。デビューしたばかりで人気急上昇中のカゲヒナタの片割れとしての雛田を。
 ふたりはすぐに恋に落ち、二ヶ月後には同棲生活を始めた。思えばあの頃が一番楽しかったな。
 互いに仕事が増えるにつれ、想いや生活のすれ違いが度重なり、あとはお決まりの破局≠ヨ一直線だった。
 雛田は苦い思いで当時を振り返り、唇を噛み締める。
 碧はパリへと去っていった。もう会うこともあるまいと思っていた。ところが……。

「俺、結婚しようと思うんだ」
 数年後、影松が雛田に打ち明けた相手が、なんとその碧だった。彼女は極秘のうちに日本に帰ってきており、軽井沢に建設したプライベートスタジオを新たな拠点として活動を再開するのだという。
 もちろん相棒の影松は、雛田と碧がかつて付き合っていたことを知っている。雛田が影松のバツの悪そうな顔を見たのは、後にも先にもその時だけだ。
「じつは、できちゃった婚でな」
 雛田は戸惑いつつも、ふたりの門出を祝福した。
 結婚式は身内だけでとり行われたが、今をときめく二大スターの結婚、しかも花嫁は身重ということで、マスコミ各社は式場のある軽井沢に殺到した。彼らパパラッチをまくため、影松に変装した雛田は大いに本領を発揮し、彼らを翻弄せしめた。
 雛田は目を細めて回想する。花嫁衣装で着飾った碧は、臨月のお腹を抱えてますます神々しい美しさを放っていた。彼女は「またあなたに会えてよかった」と言った。雛田はその言葉だけで十分だと思った。
 数年後、再び碧と会ったとき、彼女は娘の手を引いていた。
「おじちゃんにご挨拶なさい」
「ヒナタおじちゃん、こんにちは。いつもテレビで見ています」
 この時ほど、相棒に嫉妬を感じたことはない。
 碧の娘、清香はひまわり≠セった。愛くるしい笑顔を惜しげもなく披瀝し、玉の転がるような笑い声をあたりに響かせた。そんな清香をはさんで碧と影松が幸せそうにしている姿は、雛田にとってあまりにも眩し過ぎた。

 彼は以前にも増して仕事に没頭した。あえて危険なレポーターに挑戦することもあった。しかし彼の心の底には虚しさばかりが沈殿していった。こんなことを繰り返して何になる。誰が祝福してくれるというのだ。
 そしてあの日。本番収録中に我を忘れて、会社の大先輩でもある有名司会者に悪態をつき、あまつさえネクタイをつかんで、床の上を引きずりまわしたのだ。
「熱湯に頭から飛び込むことにどんな意味があるんだよ。アンタがやってみろってんだ!」
 今になって自らの大人げない行動に恥じ入るばかりだ。

 仕事を干され、ひとり自宅に引き蘢っていた雛田の許に、ある日、一通の封書が届いた。清香からだった。
 直筆の文面は、雛田の近況を小耳にはさみ、彼の身を案じる文章で埋められていた。
『これからもずっとおじちゃんのファンです』
 そう締めくくられた手紙を、あふれる涙をこらえながら雛田は何度も読み返した。
 雛田は誓った。彼女に恥ずかしくない生き方をしていこうと。そして、彼女が応援してくれる限り、せいいっぱいがんばろうと。

 気がつくと彼は元のオープンテラスに舞い戻っていた。紳士淑女たちは、流れる音色にうっとりと聞き惚れている。しかし奏でられている楽器はピアノではない。
 雛田はテラス中央の円形ステージに目をやる。
 そこには、アルパを弾きながら雛田に笑顔を向ける清香がいた。

「おい、雛田! 目を覚ませ!」



[TOP] [ページトップへ]