Jamais Vu
-56-

四十五歳の多感
(7)

 四駆は夜の高速道路をひた走る。
 並走する車はなく、対向車ともめったに出会わない高速道路はひどく現実感に乏しく、雛田は自分がまるでCGかゲームの中にいるような気分がした。
 影松がセカンドバッグから一枚のCDを取り出し、プレーヤーに挿入した。スピーカーから躍動感にあふれたラテンのリズムが流れ出す。壮大なアレンジをバックに、跳ねるような弦の響きが華麗に登場する。
「清香ちゃんの最新アルバムかい?」
「ああ、先月発売されたばかりだ」
 訊ねるまでもなく雛田は知っていた。なぜなら清香自身が発売日前に雛田に送ってくれていたからだ。彼はタレント送迎の車中で毎日のように聴いていた。
 影松清香は、いまや押しも押されぬ売れっ子ミュージシャンである。CDの売り上げは常にクラシック部門で三位以内をキープし、コンサート会場はどこも満杯だ。雛田も一度だけ行ったことがある。広いステージの上でオーケストラをバックに、自分の身体よりも大きな楽器“アルパ”を抱えるように演奏する姿に、思わず見とれてしまったものだ。
「彼女はいま何歳になるんだっけ?」
「二十三だ。……いや違う、二十二か」影松はあわてて言い直した。「おのれの娘の年齢を間違えるなんて、つくづくダメな親父だな俺は」
「まったく、あんな素晴らしい娘を持っていちゃ、何を言っても自慢にしか聞こえないよ」
 曲はバラードに変わった。ギターとのアンサンブルが美しい。
「フン、どうせお前も“トンビが鷹を生んだ”って言いたいんだろう?」
「カゲが生んだわけじゃない」
「そりゃそうだ。ハハハハハ」
 つられて雛田も笑う。
「そういえば、碧(みどり)さんは達者かい?」
 碧は、清香の母親にして影松豊の妻である。
 碧のことを思い出すと雛田の胸は苦しくなる。かつて雛田と碧は恋仲だった。ささいなことで仲違いし、分かれるに至ったが、数年後、彼女は影松と結婚した。もうずいぶん昔の話だ。
「相変わらず元気だよ。ずっと演奏旅行に出たっきりで、今頃はロンドンだかパリだか」
 清香の母親は有名なピアニストで、清香にアルパを紹介したのは彼女だった。
「いつの間にか親子三人バラバラになっちまった」影松が窓外の暗闇に目をやりながら、独り言のように呟く。「それでも清香と母親の仲がいいのは救いだが。ふたりは頻繁にメールのやりとりをしているらしい。俺だけ蚊帳の外というわけだ」
「ずいぶん愚痴っぽいじゃないか。日頃のオレ様節はどうした?」
「今夜だけはどこにでもいる気弱な父親を演じていたいのさ」
 四駆は高速道路を北西へと快調に進む。ここまで五台の車とすれ違ったが、どれも救急車かパトカーだった。縁起でもない。雛田は首を振った。
「そう謙遜したものでもないだろう。娘から助けを乞うメールが来たんだから、頼りにされてるんだよ」
「そうなのかな。でもこの数年、向こうからメールが来たことなんか一度もなかったのに……。お前の方に連絡はなかったのか?」
「僕はメールアドレスも電話番号も知らないからね。ときどき手紙をもらうくらいさ」
 それは本当だった。月に一、二通のやりとりが“ときどき”かどうかは議論の分かれるところだが。
 清香にとって雛田は気のいいおじさんなのだろう。素直に父親に甘えられない気持ちを、雛田との交流で癒しているのかも知れない。逆に雛田こそ、かつての恋人の娘が手ずから書いてくれる手紙や彼女の奏でる音楽に、独り身の寂しさがどれほど癒されたことか。

 空が白み始めた頃、長野の県境を越えた。
「大丈夫か? 睡魔に襲われてないか?」
 影松が訊ねた。声がわずかに緊張の色合いを含んでいた。軽井沢が近づくにつれ、娘に対する気がかりが膨らみ始めたようだ。
「大丈夫。ちっとも眠くない。エスプレッソの効果絶大だよ」
 気がかりは雛田も同様だったが、あえて明るい声で応答してやった。
「そいつは良かった。ここまでくれば到着まで一時間というところだろう。……おや、あれは?」
 影松が道路の前方を指差した。雛田も気がついた。
 夜明け前の仄暗い空気を背景に、そこだけ光がゆらゆらと蠢(うごめ)いている。
「──火だ」
「料金所じゃないのか? 燃えてるのは」
 雛田は少しずつスピードを緩めていった。



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