影松はエスプレッソを一口すすると、その口許を曲げながら、
「当たり前じゃないか。俺に娘はひとりしかいないよ」
「ああ、まあ知って……るけど、こんな真夜中に彼女を訪問するのかい?」
「さっき十時過ぎにメールが届いたんだ」
影松は上着の胸ポケットから携帯を取り出した。
「PAIを変えた?」と雛田。
「ん? ああ、前のに飽きたんでな」
ピンクのカバが液晶画面から顔を覗かせている。ふかふかの縫いぐるみのような小さなカバだ。毛並みが濃いためか、小さな黒目がしょぼついて見える。影松はそのカバに向かって、清香のメールを出せと命令した。カバはフゥーンと頼りなげな声で応じると、画面の中に後退し、代わりに一通のメールを浮き上がらせた。
お父さん、清香です。
とても困ったことが起こりました。すぐ私のところに来てほしいのです。何時になってもかまいません。
わがままなお願いでごめんなさい。
「これだけかい? 困ったことっていったい何なんだ」
雛田は身を乗り出して訊ねた。
「俺にも判らんよ。電話をかけても通じないしな」影松はパタッと携帯を閉じた。「だからこちらから会いにいくしかないんだ」
「だったら悠長に構えている暇はないだろう。すぐ出発しよう」
雛田は腰を浮かせた。それを見て影松は苦笑を漏らす。
「ハハハ。親父の俺より心配してくれるじゃないか」
「な、何をバカなことを言ってるんだ。お前だって気がかりじゃないのか?」
雛田は自分の顔が赤くなるのを感じながらも、言い返さずにいられなかった。
「俺をお前と呼んでくれたな。ようやく往年の名コンビ、復活の兆しが見えてきたぞ。いやすまん。からかうつもりはない。もちろん娘のことは心配だ。だから運転手としてお前に白羽の矢を立てたんだ。なぜなら娘の立場もあるし、第三者に頼んで娘の難儀がマスコミに漏れでもしたら、場合によっては大変だからな」
「なるほど」
「それに雛田、お前、ときどき清香の相談相手になってくれてるそうじゃないか」
「まあその……たまにな」
「お前が同行してくれると俺も心強い。清香も喜ぶだろう。
お前も知ってのとおり、清香にとって俺はお世辞にもいい親父とは言えない。小さい頃はカゲヒナタの営業が多忙を極めたせいで、遊園地へ遊びに連れていってやるどころか、顔を見る暇もろくにない有様だった。小学校の卒業式、たまたま時間が空いたので駆けつけてみたら……笑っちまったよ。どれが自分の娘だか判らなかったんだからな。
芸人生活から足を洗い、会社を興してプロデューサー業に徹し始めると、ますます家族とは疎遠になった。俺はシビアな人間だから敵も多い。知らないところで根も葉もない噂をバラまかれることもたびたびあった。そのすべてが嘘だとは言わないがな。まあそうなると俺だって家族に迷惑をかけたくないから、ますます距離を置きたくなる。……言い訳がましいかな。ハハハ」
「笑ってる場合じゃないだろう? なあカゲ。話は道々聞くから、急いだ方がいいんじゃないか?」
「そうだな、うん」
芸能界では強面(こわもて)の影松が、相棒に個人的な用を頼むことに多少は抵抗、もしくはテレがあるのかもしれない。ようやく重い腰を上げた彼は、ここは俺が持つからと、ふたり分の勘定を支払った。そしてバーテン親子に軽く手を振ると、階段を駆け上がって地上に出た。
「レンタカーを用意してある。こっちだ」
社の専用駐車場に行ってみると、そこには街灯に照らされた四駆がぽつんと置かれていた。ふたりは乗り込み、雛田がエンジンを始動させる。
「えらく車高の高い車を借りたんだな」
「だって行き先は軽井沢の奥だっていうじゃないか。これくらい必要かと思ってな」
「行ったことはないのか?」
「ないよ」
四駆はうなりを上げて駐車場を出ると、国道に向けて走り出した。
ハンドル脇の液晶パネルが午前二時半を示している。目的地への到着は朝方になるだろう。
影松は自分の携帯をダッシュボードのコネクタに接続すると、液晶画面に先ほどのカバを呼び出した。
「おい、軽井沢までのナビを命じる。しっかりやれ」
カバは鳴き声ともため息ともつかない声で返事した。 |