Jamais Vu
-54-

四十五歳の多感
(5)

 雛田は電車の中で遭遇した奇妙な事件について、影松に細かく語って聞かせた。影松は途中で言葉をはさむことなく、最後まで静かに耳を傾けていた。口数の多い影松が聞き役に徹するのは珍しいことである。というのも雛田の場合、下手に合いの手を入れたが最後、話がどんどん横道に逸れていく可能性があるからだ。長年の付き合いで相手の性格は知り抜いている。
 話しながらその時の情景を思い出したのだろう。雛田は額に浮かぶ汗を何度も二の腕でぬぐいながら、それでも彼にしては要領よく話をまとめた。
 聞き終えて、影松は開口一番こう訊ねた。
「なんでそのじいさんが乃木大将なんだ?」
「イメージがピッタリだったんですよ。昔、ロケで京都に行ったとき神社で見た銅像にそっくりで」
「他にたとえようがないのか? 乃木大将といえば戦国時代の武将だろ?」
「いいえ、幕末の戊辰戦争で勲功のあった人でしょ?」
「……日露戦争」
 ぼそっと漏れたような声がカウンター越しに聞こえてきた。顔を向けると、タンブラーを拭う手を休めたバーテンの息子がそこにいた。
「ホント?」と雛田。
「はい……すみません。口をはさんで」バーテンの息子は礼儀正しく頭を下げて詫びる。
「若いのに物知りなんだね。ところでニチロっていうと、戦った相手はローマ?」
 バーテンの息子が何か答えようとするのを、影松が掌を上げて制した。
「答えなくていい。そうやってだんだん話がズレていくんだよ。いつものパターンじゃないか。……そんなことよりお前の話のラストの方が気になるよ」
「私の怪我を気にしてくださるんですか?」
「バカ。刺された連中がことごとく砂になっちまったってくだりだ」
「やっぱり」
 影松は足を組むと、雛田に顔を近づけた。
「ひとつ教えてやろう。今日の夕方、成田で胴体着陸に失敗した旅客機が炎上した事件、聞いてるか?」
「いえ、忙しかったもので」
「俺はお前の千倍忙しいんだよ。でな、火災が鎮静化してからレスキュー隊が機内に入ってみるとだな、そこには──」
「そこには?」ごくり。
「だーれもいなかったんだとさ。乗客はおろか機長もフライトアテンダントも。生存者どころか遺体の影すら見あたらない」
「無人……」
「そうだ。代わりに、すっぽり脱ぎ捨てられた衣服ばかりが砂にまみれて散らばっていたと報告されている。どうだ、お前の話と似てるだろ?」
「え、ええ」雛田は身震いした。
「ただ表向きの発表は全員死亡ということになっている。火災がひどくて骨すら燃え残らなかったとな」
「じゃあなぜ社長は事実をご存知なので?」
「俺だからだよ」
「……でも、どうしてそんな嘘の公表なんか」
「しょうがないだろ。国がストップかけてるんだ。まあ表沙汰になるのは時間の問題だろうがな」
「そうですよね。山手線でもあれだけ大騒ぎになったんですから」
「そんなこんなで」影松は空になったグラスを上げて、バーテンにお代わりを求めた。「マスコミはどこもかしこもてんやわんやだよ。いろんな情報が錯綜しててな。機内に新種の細菌兵器がバラまかれたなんて噂もある」
「細菌兵器……」
「お前、その砂をかぶったりしたんじゃないのか?」
「少しは吸い込んだかも……」
「危ないな。今夜あたり身体がザーッと」
「ははは。脅かしっこなしですよ社長」
 雛田がおどけたように言うと、影松は露骨に嫌な顔を見せた。しかし言いたいことを酒に混ぜて飲み込むと、そのまま話を続けた。
「これは確度の高い情報なんだが、重傷を負った人間の身体が砂粒になって崩れる現象っていうのが、いま世界各地で起きているらしい」
 雛田は絶句した。電車で見た光景が眼前によみがえる。
「そんな……」
「そうだ、地球規模で同時多発テロが決行されたという、ちょっと非現実的な話だ。どこまでが真実でどこからがデマなのか判りゃしない──だが今の俺にとっては、そんなのはどうでもいい話さ」
「そ、そうなんですか?」
 おどおどと上目遣いに影松を見やる雛田。そんな元相棒の姿に、影松は「オイ!」と怒鳴ると、カウンターを拳でドンと叩いた。
「いい加減にしろ雛田。お前は俺の元相棒だぞ。なんでいつもそう卑屈な物腰になる? ふだんならいざ知らず、ふたりっきりの時まで敬語なんか使うなと言ってるだろ。必要以上にへこへこしやがって、元相棒の俺の値打ちまで下がっちまう」
「その……いや……あの……はい」
 雛田は小刻みに頷きながら背中を丸めていった。影松はさらに二言三言たたみかけようとしたが、元相棒の薄くなった頭頂が目に入ると、それ以上何も言えなくなってしまった。
 影松はエスプレッソをふたつ追加注文した。
 無口のバーテンがふたりの前にカップを置く。カチャリという音が絶妙の合いの手のように響き、雛田の肩の力をいくぶん緩めさせた。
 飲めよと促す影松に、雛田もカップに手を伸ばす。
「俺が免許を持ってりゃ、お前を煩わせることもなかったんだが──。長距離の運転になるから、すまないがそれ飲んできっちり目を覚ましといてくれ」
「……行き先はどちらで?」
「娘のところだ」
「清香ちゃんの?」


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