Jamais Vu
-53-

四十五歳の多感
(4)

 カゲヒナタ。
 影松豊(ゆたか)と雛田義史はかつてこの名前でコンビを組み、コメディアンとして一世を風靡した。果てしなく脱線を繰り返す雛田のボケに、毒舌の影松が激しくツッコミを入れまくる。そのスタイルが大いに受け、ふたりはデビューするや各種コンテストを総なめにし、アッと言う間にスターダムへと登りつめた。
 その結果、仕事の数は極限にまで増えていき、ふたりは秒刻みでテレビ局をハシゴし、スタジオからスタジオへ、ステージからステージへと駆け巡ることになった。
 高額のギャラが彼らの目の前に現れては背後へと消えていった。遊ぶ時間はおろか寝る時間さえないふたりには、やがて金の流れも遠くかすんで見えなくなった。
 ふたりはへとへとになりながらも、毎日タフに仕事をこなしていった。つらい時は互いに励まし合った。彼らは同い年で幼友達だったから、相棒だけが唯一の心のよりどころだった。
 雛田は回想を中断すると、サンドイッチを持ったまま、視線を影松へと転じた。
「──ウチのイチオシの新人なんだよ。なんとかオタクの新番組に使ってやってよ、頼むからさあ。ウン、ウン、そうか、恩に着るよ」
 影松はグラス片手に携帯画面に映る相手と話している。そして一通話が終わるとすぐまた別のところにかける。じつにせわしない。
「──なあ、お前んところのディレクター、何だよアレは。ウチのタレントを潰すつもりか? 上に伝えろ。次までに頭をすげ替えとけってな。さもないとオタクから全面的に手を引くぞってな。以上」
 気の弱そうな相手の顔が画面から霧のように消える。影松は携帯をカウンターに置きながら、まったく誰に食わせてもらってんだと宙に向かって毒付く。雛田にとって見慣れた風景だ。
 カゲヒナタはデビューから十五年で芸能生活に終止符を打った。理由は人気に翳(かげ)りが出たからでもスキャンダルに巻き込まれたからでもない。雛田が耐えられなくなったせいである。
 スケジュールがハードなのはまだいい。そしてステージでコントをやっている間は。問題なのはバラエティ番組だ。自分たちの冠番組だろうがゲスト出演だろうが、やりたくないことをやらされ、口にしたくもない言葉を強要される。
 自虐ネタならまだいい。そうではなく、他の誰かをおとしめたり辱めたりするのに我慢ならなくなったのだ。
 雛田はとうとう、ある番組の収録中にキレてしまった。所属する会社の先輩司会者に噛みついたのだ。
 周囲は穏便に済まそうと懸命に取りなしてくれたが、雛田は謝罪しなかった。自分はまちがっていない。あんな笑いを提供するぐらいならさっさと足を洗ってやる。すでに三十代半ばだったが、若気の至りといってもいい。いま思い返せば多少の驕(おご)りも手伝ったかもしれない。
 いずれにせよ、雛田は芸能界から干され、その日から生活に困窮することになった。あれほど稼いだ金はどこか知らないところに消えてなくなった。住んでいた高級マンションも追い出され、一転して路頭に迷う羽目に陥ったのだ。
 家族もおらず、故郷に帰る家もない雛田を救ったのは、誰でもない、相棒の影松だった。
「俺もいい加減、お笑いやってるのに飽き飽きしてたんだ。こんど独立してプロダクション作ることにしたからウチで働けよ」
 雛田は相棒の言葉に涙を流した。とはいえさすがに周囲の目もあり、重役に据えることはできない。雛田は一介のマネージャーから再スタートを切ることになった。
 一線から退いた雛田を最も驚かせたのは、それまで見せたことのない相棒の姿だった。影松は、いつの間に築いていたのか、多方面にわたる人脈を駆使すると、自身の芸能プロを短期間のうちに誰も見過ごせない、一大勢力を持つ会社に急成長させたのだ。
 陽の当たらない有能タレントを引き抜く。無名の新人は自ら足を運んで発掘する。そして適材適所の番組派遣を自らの責任でおこなった。それらはすべて意外性に満ち、たちまち相棒の会社は業界とお茶の間の話題を独占した。
 雛田は今さらながら幼なじみの隠れた才能に舌を巻かずにいられなかった。相棒は生まれながらのプロデューサーだったのだ。
 ──あれから早や五年。
 すっかり社長の貫禄を身につけた相棒とは逆に、雛田はタレントたちのマネージャーとして、日夜彼らの送迎とスケジュール管理に追われている。相棒を社長として立てることにもようやく慣れた。
 その相棒は隣で携帯に向かって役立たずと怒鳴ると、パチンと通話を切り、雛田の方に向き直った。
「まったく今の若い連中は義務教育を受けてるのかねえ。この国の将来を案じずにはいられんよ」
「はあ」と雛田は背中を丸めるながら相づちを打つ。
「ところでお前さっき、山手線がどうとか言ってなかったか?」
「……覚えてたんですか?」
「俺を誰だと思ってるんだ。物覚えの悪い政治家といっしょにするな」
「すいません。……その、山手線の車内で殺人事件があったんですよ」
「殺人だとお?」声が裏返った。「面白そうな話じゃないか。もったいぶらずに話せ」
「ハ、ハイ」雛田は口の中のサンドイッチをコーヒーで流し込むと言葉を続けた。
「その、暴れていたアンディ・フグ選手の前に、乃木大将が現れまして、いきなり座頭市に変身したと思ったら、仕込み杖で一刀両断。退治されたアンディ・フグは砂になって──」
「コラコラ、こんなところで十八番の脱線芸を披露するな」影松は顔をしかめる。「想像力だけは俺の百倍あるくせに、まったく宝の持ち腐れだぜ」


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