Jamais Vu
-52-

四十五歳の多感
(3)

 昼間、あれほど強かった日差しが嘘のように、雛田の両脇を冷たい風が吹き過ぎていく。晩夏というより初秋だ。思わず身震いしながら、着古した一張羅の背広の襟を立てた。
 歩を運ぶ雛田の足音が、異様なほど街に響く。さっきまではちらほら見かけた通行人の姿はどこにもない。立ち止まって耳を澄ましてみる。すると東京とは思えない静けさが迫ってきた。
 どこか遠くを走る救急車のサイレンが、街の輪郭を浮き上がらせる。
 彼は戦慄を覚えた。
 ひょっとすると自分の佇んでいるのは、鯨の背中ではないだろうか。夜の大海原で水面に巨体を浮かべて眠っている鯨の。遥か遠くではサイレンを付けた鮫が波をけたてて遊弋(ゆうよく)している。
 雛田は自分で自分の想像に恐怖を感じた。彼の足はいつしか痛みを忘れて小走りになっていた。

 目的地に到着したとき、雛田はホッとせずにはいられなかった。
 目の前の小振りなテナントビルを見上げる。年季の入った外観はさすがに夜は見えない。彼の会社が構える事務所は三階の角にあるのだが、すでに消灯されていた。相棒はどうやら“店”の方にいるらしい。
 雛田はビルの正面玄関を通り過ぎると、すり減った石の階段を下りていった。“店”とはビルの地下にあるバーのことで、ビルが建てられた頃から変わらず同じ場所にある。
 重たいオーク材の扉を開くと、間髪入れずにキーの高い声が彼の耳に飛び込んできた。
「これはこれは雛田会長。ごゆるりとしたお出ましですな。わたくし社長の影松、だらしないことに貴方様を待ちきれず、酒に手が伸びてしまいました。どうかこのわたくしめをクビにしてやってください」
 止まり木に座ったまま彼を迎えた男は、両手を握りしめて雛田に許しを請うてみせた。雛田は顔をしかめつつ頭を下げた。
「申し訳ありません。アイドルたちを自宅に送っていく途中で、ひとりが買い物したいと駄々をこねたものですから。そのうえ山手線で──」
「なるほど会長おん自ら、ウチの所属タレントのわがままのお相手をされていたのですな。これは私も見習わねばなりません」
「勘弁してくださいよ」たまらず雛田は悲鳴を上げた。「私は吹けば飛ぶような一介の平社員です。言い訳などしてまことに済みませんでした。社長をお待たせしたことも反省しております。どうかお許しください」
「本気で受け答えするな。雛田ともあろう者が」
 影松は止まり木に腰掛けたまま、グラスの中の酒をぐいとあおると、雛田に横に腰掛けるよう無言で示した。
「今夜呼び出したのは、俺の個人的な用事なんだ。仕事じゃあない。頼まれてくれるな?」
 もとより雛田は否やを言える立場ではない。影松の頼みはイコール至上命令である。影松は雛田が頷くのを見もせずにバーテンに顔を向けると、こいつに何か食うものをやってくれ、クラブサンドイッチがいいと勝手に注文した。
 雛田はおずおずと影松の隣に座った。
 客はふたりのほかに、奥まったテーブルに三人連れの男性客がいるだけだ。いつもより店内が静かなのはそのせいもあるらしい。店内は決して広くはないが、流れてくるジャズピアノ(アナログ盤のレコードである)のせいで互いの声は聞こえない。もっともこのバーの常連に、大声を出すような人間はいない。たまたまそんな人間が闖入してきても、すぐ淘汰されてしまう。このバーはそんな雰囲気を持っている。だから影松も雛田もここが好きだし、午後五時以降の打ち合わせなどに使うこともたびたびある。だいいち最初に惚れ込んだのは影松で、三年前、同じビルに事務所を移転させたのも彼の思慕の情が昂じたためである。
 確かにいい酒を出す。ちょっとした食べ物も提供してくれる。初老で伏せ目がちのバーテンと、彼の息子だという若い店員はふたりとも寡黙で、完全にバーに埋没していると言うべきか一体化していると言うべきか。
 サンドイッチはあらかじめ用意されていたかのように、すぐに出てきた。夕食を取る暇もなかった雛田は待ちかねたとばかりに手を伸ばす。
「酒は飲まないでくれよ。頼みというのは今夜、俺の運転手になってほしいということなんだ」
「でも車は渋谷で、交代のマネージャーに渡しましたが」
「知っている。まあ話はそれを食い終わってからにしよう」
 影松はそう言うと、バーテンにコーヒーを注文した。雛田に飲ませるつもりらしい。どうやら行き先は近所ではなさそうだ。
 雛田はふと思う。奥にいる三人連れの客のひとりは結構な年配らしい男が混じっている。もし彼がこちらに目を向けたらこう言うかもしれない。
「あの有名なコメディアン、カゲヒナタのおふたりですよね? 再結成の相談でもしてるんですか?」



[TOP] [ページトップへ]