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-51- 四十五歳の多感 (2) |
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同じ車輌に乗り合わせた者たち全員が、首を長くして待ちかねた言葉、それがついにほとばしり出た。彼らは、この瞬間、大いに溜飲を下げたことだろう。快感を得たことだろう。 ただし……。 続いて訪れるはずの重苦しい数分ないしは数十分が頭をよぎれば、快感の温もりはいとも簡単に冷えてしまう。 言葉を発した者は、人身御供として此岸に取り残され、言葉を発しなかった者は、あわてて川に飛び込み、彼岸へと必死に泳ぎ、逃亡を試みる。 雛田は、言葉を──発しなかった。 雛田が発するつもりだった言葉は、隣りに突如現れた七十代と思しき男性の口から、わずかコンマ一秒だけ早く発せられたのだった。 台詞を取られて、雛田は呆然と隣りの男を観察した。 男は三つ揃いの背広をきっちりと着用し、わずかに曲がった腰を支えるため、右手にステッキを持っていた。白髪はきれいに撫でつけられ、口ひげは形よく整えられている。小柄で引き締まった体付きはどこか軍人を連想させるところがあり、逆八の字の太い眉やその下で鋭い光を発する眼は、高地に攻めてきた敵を前にして、「てーっ」と叫びそうな予感を抱かせた。 雛田は男の風貌から陸軍大将乃木希典(のぎ・まれすけ)を連想した。 まさに“大将”は、若者たちを前にして宣戦布告したのだ。 しかし若者たちはそうは受け取らなかった。 「おじいちゃん、そんなに顔を真っ赤にすると、あっちのおじいちゃんみたいに倒れちゃうよ」 彼のPAIがヌンチャクを振って威嚇する。 「黙れ!」 大将は、股を拡げてヘラヘラ笑いを浮かべる若者たちを前に、威厳に満ちた低い声で恫喝した。 雛田は、大将は次に訓辞を始めるに違いない、そう見ていたが、大将はまったく予期せぬ行動に出た。ステッキを持ち上げると、左手で真ん中辺りを握り、スライドさせたのだ。 そこには刀が仕込ませてあった。 まるで映画だ。座頭市だ。勝新太郎には似ても似つかない。 若者たちはさすがに驚いたようだ。しかしリーダー格は仲間の手前、逃げるわけにも行かない。虚勢を張ってへらへら笑いを続けている。 大将はPAIの向こうに若者の顔を見おろしながら、 「お前たちを探すのに苦労した。覚えておるか。先週、渋谷でお前たちに因縁を付けられ、大怪我をさせられたワシの孫を」 「アハハ、そんな昔のこと言われても、ボクちゃん生まれてないし〜」 冗談のつもりだろうが雛田には笑えない。 「……お前たちにワシの言葉は通じまい。ならば身体で思い知るべし」 それだけ言うと大将は前傾姿勢になり、リーダー格の胸に飛び込んでいった。リーダー格は足払いを浴びせようとしたが、不意をついた分、大将のほうが早かった。 「ナニすんだよ!」 リーダー格に突き飛ばされて、大将は床の上に転がった。しかしステッキの先端は、リーダー格の腹にしっかりと突き刺さっていた。 「クソ、いてーじゃんかよー」 リーダー格は力まかせにステッキを引き抜いた。刺された辺りのTシャツが見る見る真っ赤に染まっていく。 「うわっ──何なんだこりゃ──ゲフッ」 彼は遠い目をすると、床の上に大の字になって倒れた。 車内は乗客たちの悲鳴で充満した。男性ばかりだったが。 「アニキ!」 子分格の若者たちがリーダー格のそばに屈み込む。しかし彼らのアニキはピクリともしない。即死に近いのではないか。雛田はそう思った。 「な、なんだコレ?」 「ひいいいい」 怯えるような声をあげて、子分どもが一斉に腰を引いた。彼らは一様に目を見開き、アワアワと震えていた。 雛田も彼らの視線の先を見て絶句した。 倒れたリーダー格の身体が土気色に変わっていたのだ。 そして電車の揺れに合わせるように土気色の身体がボロボロと崩れていく。 (どういうことだ、変わり身の術か?) 見守っているうちにリーダー格の砂像はどんどん崩れ、アッという間に“人型に蒔かれた砂”になってしまった。 「ハッハッハッハッハ」 大将の哄笑が耳を打つ。 「奴め、人でなしとは思っていたが、やはり人ではなかったわ。ワシが殺したのは人間ではない。ワシは殺人犯ではないぞ!」 そうなのか? リーダー格はエイリアン? 雛田の頭は混乱した。 「どれ、他の連中も退治せねばならん」 大将は再びステッキを取り上げ、子分どもに近づいていった。その顔には悪魔的な笑いが浮かんでいる。 「ひいい、助けてくれ!」 最も近くで無防備な胸をさらしていた一人が、二番目の犠牲者になった。大将がステッキを引き抜くと、子分の身体は刃を受けた箇所から砂に変貌していった。わずか数秒で腕が付け根からすべり落ち、次の数秒で頭部が床の上で四散した。 「妖怪どもめ、この世から消えてなくなれい!」 大将のステッキは執拗に子分たちを追っていく。腰を抜かした彼らは逃げることもできず、次々と始末され、砂になっていく。 そのとき、電車はようやく池袋駅に到着した。扉が開くや、恐怖に駆られた乗客たちが一斉にホームに逃げ出した。雛田も出口に向かって駆け出したが、誰かに突き飛ばされ、向こう脛をイヤというほど柱に打ち付けてしまった。 しばらくは歩くことができず、駅構内に隠れていたが、やがてパトカーと救急車の音が聞こえてくると、面倒はごめんとばかり、裏の方にまわり、やっとのことで逃げ出すのに成功した。 (砂になった若者たちは、本当にエイリアンだったのだろうか……) 雛田の脳裏に、砂になった若者の顔がよみがえった。今頃になって身震いするような恐怖が込み上げてくる。 (とにかく急がねば。あんまり待ちぼうけをくらわせると相棒が癇癪を起こすぞ) 雛田は寂しい夜の街を、足をさすりながら歩いていった。 |
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