Jamais Vu
-50-

四十五歳の多感
(1)

 萠黄がまどろみの中で最初の寝返りを打った頃──。

 ひとりの男が、左足を引きずるようにして夜の街をトボトボ歩いていた。
 午前一時。夜の人間たちにとってはまだまだ宵の口という時間。しかし今夜の池袋は、いつもとどこか違う表情を呈していた。人通り──というより賑やかさが微塵(みじん)も感じられない。
(どいつもこいつも、肝だめし大会で墓場に踏み込んだみたいに、オドオドした眼をしてやがる)
 ならばさしずめビル群は墓石か。呟きながら男は立ち止まり、向こう脛(ずね)をさすってみた。若干うずくものの痛みはかなり薄らいでいた。 ズボンをめくってみても内出血している様子はない。ホッと安心する。
(それにしても、あの騒ぎは何だったのか……)
 再び歩き出す。
 男は一時間前の出来事を思い返した。

 男の名は雛田義史(ひなた・よしふみ)。四十五歳。
 午後十一時を回ってようやく仕事から解放された雛田は、くたびれた背広に包まれたくたびれた身体を引きずるようにしてJR渋谷駅の改札をくぐると、発車間際の電車に駆け込んだ。
 車内はそこそこ混み合っていた。雛田は扉の脇の手すりによりかかると、ふうと息を吐いて目を閉じた。
(下手すると睡魔に負けちまいそうだ。まだ一用事あるというのに)
 しかし電車が走り出すや、すぐそばで上がったけたたましい笑い声に眠気を吹き飛ばされた。
 笑い声はこの世のものとも思えぬ醜悪さを帯びていた。
 と入れ替わって今度は別のキンキン声が下手クソな歌を歌い始めた。
(チッ、またPAIか)
 雛田は流し目で騒音源を睨みつけた。同じく乗り合わせたサラリーマンたちも渋い顔で視線を注いでいる。
 騒音源は、遊び帰りらしい若者たちが拡げている携帯電話だった。それぞれの液晶画面から飛び出したPAIたちが、口々に雄叫びをあげ、歌っていたのだ。
 公共マナーはもはや過去の遺物なのだろうか。PAIが一大ブームとなり、一般的なデジタルペットとして定着してから早や数年。『車内ではPAIを起動しないように』という警句も連中にとってはどこ吹く風だ。
 一昔前の携帯メールは静かな分まだ良かった。今やどこへ行っても、PAI、PAI、PAI。日々流れるニュースでは新バージョンのPAIの紹介は欠かせない。ショッピングモールはどのフロアにもPAIステーションがあり、新種のアイテム入荷の文字が人々の購買欲をさらにかき立てる。最近では子供や若者ばかりでなく、中高年層にまでユーザー層は広がっている。

 以前、自宅そばの公園で見た光景が思い出される。顔見知りの老紳士がベンチに腰掛け、携帯に向かって熱心に話しているのを見かけたが、そのPAIを見て仰天した。PAIは老紳士の亡き妻だったのだ。
 ふたりの会話は長年連れ添った老夫婦のそれだった。「そうでしたわね」「そんなことありませんよ」などPAIは相づちを打つばかりなのだが、仕草や声色を亡妻に似せてチューンアップしているらしい。老紳士は愛おしむように両手で携帯を包んでいた。
 最近、身内の死を受け入れられない人を対象にした、新たなPAIビジネスが注目を集めている。だがそんなビジネスが人を豊かにしているのかどうか。
 見ていた雛田は、やがてもの悲しくなり、そそくさとその場を離れた。

 PAIの利点をすべて否定するつもりはない。しかし何ごとにもいい面があれば悪い面がある。PAIの登場で公共の場と私的な空間の境界がますます曖昧になってしまったことは事実だろう。

 新宿を過ぎて、PAIどもの狂乱ぶりはますます度を深めていた。PAIどもはアニメキャラの女の子だったり、特撮ヒーローだったり、あるいはグシャグシャとした妖怪だったり千差万別だ。それらが口々に叫んだり歌といえない歌声を披露したりするものだから、思わず耳を覆いたくなる。中には隣り客に火を吹きかけるヤツもいる始末。
 それでも雛田は諫(いさ)める気は毛頭なかった。そんな恐ろしいことはもってのほか。気弱な雛田にとっては埒外(らちがい)の選択肢である。乗り合わせたサラリーマンたちが黙っているのも同じ理由からだろう。
 若年者人口が減り始めてこのかた、「子供は宝」と甘やかして育った若者たちの傍若無人ぶりは十年前の比ではない。大騒ぎする、ひったくりはする、煙草は吸うで、もはや手がつけられない。おかげで女性客の姿がなくなり、女性専用車輌も消えてしまった。
 雛田もできればこんな時間帯に山手線を利用したくはなかった。

 目白を出た辺りで、ガラスの割れる音が鳴り響いた。雛田も周囲の乗客たちもギョッとして振り向いたが、ガラスはどこも割れた様子はない。リーダー格とおぼしき長身の若者がニヤついているだけだった。
「へへへ、だまされてやんの」
 PAIの仕業だったのだ。彼の手許では有名格闘家をカリカチュアしたPAIが、両手に割れたガラスを持って高笑いしている。眉をひそめる周囲の大人たちをよそに、若者は悪びれたふうもなく、友人たちの話の輪に帰っていく。
 そのとき、若者たちの向かいの席の老人男性が「ううう」とうめきながら前屈みになり、そのまま床に転がり落ちた。
 雛田はすかさず駆け寄ると、老人を助け起こした。
「大丈夫ですか?」
「……し……心臓が」
 ガラスの割れる音が老人の心臓を直撃したのだ。雛田は怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 周囲の乗客と協力して、老人を座席に横たえさせると雛田は若者たちをキッと睨み据えた。緊張で身体中から汗が噴き出すのがわかる。だが、もはや我慢の限界だ。
「お、お前ら、い、いい加減にしろ!」



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