殴られた伊里江は、衝撃を受けきれず、頭を下にして床に転げ落ちた。手足を縛られているから受け身もとれない。側頭部をしたたかに打ち付けると「ぐぐっ」とうめき声をあげた。
「この野郎、逃げられると思うな!」
身動きができないのだから、逃げられるわけはないのだが、頭に血が上った揣摩は、意味不明な罵声を浴びせながら伊里江の腹を蹴り上げる。
「揣摩さん、ダメッ!」
萠黄は本能的に叫んでいた。
「怪我したら、砂になってしまう!」
二発目の蹴りを入れようとした揣摩の足が止まった。
「砂に……」
彼の足許で顔を上げた伊里江の口の端から、一筋の血が床にしたたり落ちた。それを見て揣摩は後ずさりした。
あわててむんと萠黄は伊里江のそばに駆け寄った。
「……大丈夫です。私は砂になったりしませんから」
伊里江は荒い息のなかで弱々しく笑った。
むんはティッシュで血を拭うと、萠黄と協力して伊里江を抱え上げ、ソファに座らせた。見た目以上に軽い。
その間、揣摩は壁際で立ちすくんでいた。初めは作り話と笑っていたのに、これほど過敏な反応を起こしたところをみると、彼も伊里江の話を信用し始めているのだろう。
揣摩は前髪を掻き上げると、独白めいた口調で呟いた。
「俺の実家は北海道の旭川市郊外にあったんだ。あまりに刺激のない町で、小さい頃は好きになれなかった。でも上京して初めて理解できたよ。故郷って俺の肉体の一部なんだとね。だから反撥ばかりしていた両親に、いつか、でっかい孝行をしてやろうと思っていたのに──」
心なしか最後は涙声に聞こえた。
「わたしも」むんが受けとめる。「あの時、両親と弟が北海道──たぶん美瑛あたり──にいてたんよ」
揣摩はハッとして顔をあげた。
「思い出した。どこかで見た顔だとずっと気になってたんだけど、舞風さん、アンタは遺族会のリーダーだったんじゃないの? テレビで観たことがある」
「違う違う。アレはたまたまカメラを向けられたところにおっただけ。だいいち遺族会は昨日できたばっかりやし、わたしは結団式をパスしたんやもん」
そうか、あの女性がキミだったのかと一人で合点している揣摩を尻目に、むんは伊里江を介抱する。萠黄も横からおろおろ見ている。
「……これくらい平気です。長年、島を駆けずり回る生活でいろんな怪我を経験しましたから。身体は頑健なのです。その代わり、兄以外の人と会話することがほとんどなかったので、私のしゃべり方ってかなり変でしょうね」
自覚はあったらしい。
むんは休憩を入れようかと提案したが、早くすべてを話したいという伊里江の意見に押されて、全員、元の位置に着席した。伊里江の頬の痣(あざ)が痛々しい。
「……最初に舞風さんから受けた質問、『北海道を消滅させたカラクリ』にようやく答えるところまで来ました。
……もちろんこれは兄の受け売りで、私は十二分に理解しているわけではないのですが」
「早く話せよ」揣摩が冷徹な声で促す。
「……判りました。能書きは極力省きます。
……人工ブラックホールを作るには、その“種”となる物質が必要です。いわば老いた太陽のように。
……兄が実験室で成功させたミニブラックホールの種に使われたのは、一匹の蚊でした」
「蚊って、血を吸ったりする、あの蚊?」とむん。
「……意外でしょうね。兄によれば、ブラックホール生成にもっとも適した物質は“生体”なのだそうです。彼は一匹の蚊を無重力ルームの中で巨大な圧力をかけ、崩壊させることで、ブラックホールを誕生させたのです。実験室の壁を吹き飛ばすほどのエネルギーを持った」
「………」
「……そして生体の中で、とりわけ高い“生体エネルギー”を持っているのが、人間なのだそうです」
「──!」
萠黄は恐怖の予感に戦慄を覚えた。先を聞くのが怖い。しかし伊里江の話はそんな思いを上まわるものだった。
「……兄からの“予告メール”には、次のように書かれていました。
……『今回の種には人間を使うことにした。二歳ぐらいの子供だ。先ほど街なかで拾った。かわいそうだが、効果的な警告を発するためには、犠牲を厭(いと)うてなどいられない』と。
……兄が“時限爆弾”となる子供を仕掛けたのは、大雪山の中腹だったそうです。後日送られてきた彼のメールに書かれていました。彼は遠方からブラックホールが生まれるのを眺めていたそうです。突然、空がくもったかと思うと、巨大な竜巻が現れ、田畑や山を次々と飲み込み、わずか数十分で広大な北海道が丸ごと吸い込まれてしまったといいます。
……警告は日本政府に対して突きつけられました。彼は、私たち兄弟の身の安全、および研究活動に対していかなる者も干渉し得ない十全な環境を求めていました。これが受け入れられない場合、今度は国ごと──日本列島ごと消滅させるぞと」
「そんな無茶な!」むんがむせたような声を上げた。
「……いいえ、無茶ではありません。冒頭にもお話ししたように、それはもう実行されてしまった後なのですよ。
……『いかなるテロにも屈さず』の姿勢を貫いた山寺総理ら政府に対して、兄は、押してはならない最後のボタンを押したのです」
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