「……彼がそこまで思い詰めていることに気づかなかった私は、自らを大いに恥じました。
……すぐに船着き場に行ってみましたが、あるはずの舟はどこにもありません。早朝の暗いうちに発ったのでしょう。
……引き返して彼の部屋を点検したところ、身の回りのものと彼専用のノートパソコンが見当たりませんでした。早速メールを打ってみましたが、待っていても返事は来ませんでした。
……島を出て彼の後を追うことも考えました。しかし彼がどこに向かったのか、手がかりさえ残されていなかったので、泣く泣く思い止まりました。せめて返信のメールが来れば逆探知できたのですが」
「メールで場所を特定するなんて可能なの?」むんが尋ねる。
「……はい。発信後数分以内なら八十パーセント以上の確率で、痕跡も残さずに特定できます」
「三年前、GPSのハッキングによるアリバイ偽装事件が起こってから、どの通信会社も『こっそり他人の居場所を知ることは不可能』を謳い文句にしているけど?」
「……私に破れない壁はありません。私より有能なハッカーは、この世に存在しないでしょうから」
伊里江は平然と言い切った。横で揣摩が鼻白んだ顔をしている。
「……と、これは言い過ぎました。私に比肩する人間がいるとすれば、それは萠黄さんでしょう」
揣摩は、あらためて萠黄の顔を別人でも見るように、しげしげと眺めた。
「萠黄さん。キミって、そんなスゴい人だったの?」
萠黄は、とんでもないと、首を激しく横に振った。
伊里江は気にせず話を続ける。
「……数年前、私は自らのサイト“アルカトラズ”を立ち上げ、ゲーム大会を企画しました」
「名前は聞いたことある。難攻不落の刑務所やったとか──」むんが独り言のように呟く。
「……はい、サンフランシスコ湾に浮かぶ米連邦刑務所です。名前はそこから取りました。私の方で極めて堅固なセキュリティシステムを持つ仮想の城を構築し、これを誰が一番先に侵入して、指定されたデータを盗み出せるか、というのがゲームの趣旨でした。
……その大会の第一回、第二回の優勝者が萠黄さんなのです」
「はああ──それは、つまり、コンピュータの能力を競うようなものか?」と揣摩。
「……まあそうですね」
「たまげたなー。俺なんざワープロだけで精一杯だから、理解を超えてるわ。むんさん──舞風さんは?」
「萠黄から聞いてたけど、わたしにも詳しいことは判らへん」
「でも」揣摩は伊里江に顔を向ける。「第三回以降、萠黄さんは優勝できなかったのか?」
「……いいえ、抜群のIT能力を持つ彼女は、以降、企画側つまり私と共に城の防備を固める側にまわったのです。残念ながら第三回以降には、ゴールにたどり着く人間は現れず、五回で終わりにしました。
……私と萠黄さんが頻繁にメール交換するようになったのは、これがきっかけだったのです」
ますます目を丸くする揣摩の視線に、萠黄はどんどん縮こまっていく。
頬が痛いほど火照っている。彼女は人の注目を浴びるのに慣れていない。生来の引っ込み思案だし、それゆえ秀でた才能を社会で活かそうと考えたこともない。母親には「せめて情報処理の資格でも取ればツブシがきくのに」と嫌味を言われたりもした。
「……話を戻します。
……その後ひとり、島に残された私は、ひたすら兄からの連絡を待っていました。ネット上のニュースは逐一チェックし、彼が逮捕されたというニュースが報道されれば、いつでも島を出られるよう準備は怠りませんでした。
……しかし、警察のサーバーに侵入しても、彼の目撃情報すらなく、行方は杳として知れません。
……そうして待ち続けること二年。ようやく彼からのメールが返ってきたのは、今年の春でした。
……『準備は整った。ニュースを見ていなさい』。冒頭はそんな書き出しで始まっていました。『ある場所に人工ブラックホールを仕掛けた。これはデモンストレーションだ。連中は、私が本気であることを思い知るだろう』と。
……三日後、北海道が消えました」
「な、なんだと!」
揣摩は立ち上がると、伊里江の首を両手で掴んだ。
「お前の兄貴は、そんな個人的な恨みを晴らすため、俺の両親を虫ケラみたいに殺したっていうのか!」
叫ぶや、揣摩の拳は伊里江の顔を殴り飛ばした。
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