(エリーさんのお兄さんが、人工ブラックホールを発明した人……)
萠黄は、この日、何度目かの驚きを味わっていた。
意外なところで話がつながった。七年前に世間を騒がせたマッド・サイエンティスト(と今まで思っていた)、その実弟が伊里江だとは。
「古くさい名前だな。“マサキチ”だなんて」
揣摩がボソッと漏らすと、伊里江は目を細めて彼に視線を注いだ。
「揣摩さん!」むんが諫める。
手を挙げた揣摩は、プイとそっぽを向いた。
ややあって、伊里江は失踪後の話を語り出した。
「……兄の真佐吉は、私のたったひとりの肉親でした。兄が日本に戻ったとき、私もいっしょに帰国しました。しかし私は日本の学校に馴染むことができず、兄の寮で家庭教師を相手に勉強していました。それでも勉強時間が終わると、すぐさま研究室に飛んでいき、兄のそばでコンピュータをいじっていたのですが。
……そう、私たち兄弟はいつもいっしょだったのです。
……あの決断の夜、私たちは夜陰に乗じて研究所を後にし、大学のある仙台を脱出しました。そして今日まで逃亡の日々を過ごしてきたのです」
「えっと──七年間も?」
「……十ヶ月後には、落ち着ける場所が見つかりました。しかし、日本各地を転々とするあいだ、言葉では尽くせぬ苦労を経験しました。それを兄と力を合わせることで、どうにか切り抜けてきたのです。
……私が逃げるときに持ち出したのは愛用のノートパソコンだけでした。兄も自分のマシンを──。それ以外は互いに着の身着のまま、お金も大して持っていなくて。銀行預金は、足がつく危険があるため触ることができないし。
……私は愛機を駆使して銀行のサーバーに侵入すると、架空の口座を作り、目立たぬよう、よその金を流し込み、逃亡の軍資金としました。しかしいつもうまくいくわけではなかったので、兄はたどり着いた町で、アルバイトや日雇いの仕事に就きました。しかし慣れないことの連続で、並大抵の苦労ではなかったようです。そんな時、私は安ホテルの部屋の隅で、彼の帰りを待つだけでした。
……仕事で疲れた夜も、兄は自分のマシンに向かい、研究を続けていました。データは施設を捨てる際、すべて彼のマシンに転送していたので、可能だったのです。
……彼は希望を捨てていませんでした。彼の意志に賛同する者が現れたら、喜んで研究成果を提供するつもりでいました。
……しかし現実に、我々の前に現れたのは、味方ではなく敵でした。彼が残した言葉は偽りであると看破した連中が、我々の後を追いかけてきたのです。
……連中はどこまでも執拗でした。兄と私は幾度もギリギリのところで、連中の追跡の手を逃れました。
……ひ弱な私とは違って、兄は常に矢面に立って血路を切り開いてくれました。私はただただ庇護されるばかりの存在でした。それでも彼は「私のためにこんなことになって申し訳ない」と口癖のように言っていました。
……十ヶ月後、我々は心身共にボロボロになりながらも、ようやく小さな離れ小島に落ち着き先を見つけることができました。
……我々は住む者のいなくなった村の一軒家を改装して隠れ家としました。幸い、近くで漁師を営んでいる気のいい老夫婦が我々に好意を寄せてくれ、食料などを分けてくれました。衣服も彼らの子供のお下がりをもらいました。
……温暖な風に吹かれる隠れ家での生活は、不自由な点も多々ありましたが、逃亡生活に比べれば天国でした。パソコンの電源は自家発電で供給しました。ネット接続も公共衛星を密かにハッキングすることで可能にし、世の動きを探る態勢だけは確保できました。
……私はまだ幼かったせいもあり、環境への適応能力が高かったようです。昼間は島じゅうを駆けめぐったり、木の実や薪を集めたり、数少ない動物と戯れたりして遊ぶことを覚えました。
……逆に、兄は隠れ家の奥、陽も差さない部屋に籠もることが多くなりました。笑うことも少なくなり、私との会話も激減しました。ときたま口を開くと出てくるのは、世の中への恨みつらみでした。そして「真佐夫を一生こんなところに閉じ込めておくわけにはいかん」と、そればかりを繰り返していました。そんな冷え切った兄の心を温めたいとは思いましたが、私にはどうすることもできませんでした。
……それでも彼は研究を続けていました。彼がどんな思いで続けていたのか、私には想像することもできません。
……しかし、ある日、彼は私を置いて、単身、島を出てしまったのです。一通のメッセージを残して。
……そこにはこう書かれていました。
……『決着をつけてくる』──と」
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