伊里江の言葉が途切れた。
萠黄が顔を上げると、彼は自分の首からあげた双眼鏡に目を落としていた。
どうしたんだろう。頭の中を整理しているのだろうか。
俯いた顔には、どんな表情も浮かんでいない。
息詰まる沈黙の中、辛抱強く待っていると、やがて伊里江は話を再開した。
「……私は、物理学については門外漢です。だから理論に関する質問をされても、答えることはできません」
もとより萠黄には何を質問すればいいのかも判らない。ただ無言で頷くだけだった。
しかし記憶に間違いがなければ、実験室でのブラックホール生成という画期的な“発明”の顛末は──。
「……ニュースが世界を駆けめぐるとすぐ、さまざまな方面から、彼の研究に関する問い合わせが殺到しました。
……最初は主として、天文学者や核物理学者でしたが、やがて企業や環境団体からのものが多くなり、二日後にはそれらの代表と名乗る人間たちが、研究所の入口に列をなすようになりました。
……彼らの狙いは、ブラックホールが放射する高エネルギーでした」
「高エネルギー……」
むんが呟き、伊里江は、そうですと頷く。
「……ここで“天然”のブラックホールについて述べておく必要があるでしょう。
……夜空に浮かぶ星が目視できたり、望遠鏡で観測できるのは、星自体が光を放っているからです。つまり星はすべて太陽なのです。
……その太陽が年を取って、自分自身の重力で潰れ、その結果できるのがブラックホールです。ブラックホールになると、光でも何でも、近づくものはその強大な重力によって引きずり込んでしまいます。つまり、ブラックホールを発見しようと思って天体望遠鏡をいくら覗いても見ることはできないのです。
……にもかかわらず、ブラックホールと思われる天体が発見されたのは、そばに別の太陽があったからです。
……我々の太陽系は一個の太陽しか持っていませんが、連星つまり複数の太陽がペアになっている状態は、宇宙ではそう珍しくありません。そんなペアの片方がブラックホール化すると、当然もう一方の太陽が発するガスは引き寄せられます。引き寄せられたガスはブラックホールの周囲を円盤状に回転し、摩擦で回転が弱まった内側から徐々に奈落の底へと落ちていくのです。
……我々は、そのガスの動きによって、初めてそこにブラックホールがあることに気づくのです。
……さて、すべてを飲み込むブラックホールですが、じつは同時に、プラズマのジェット噴流を放射しています。それは吸い込んだガスの重力エネルギーが開放されたものといわれており、莫大なエネルギーを生み出しています」
壮大なスケールの話に、萠黄もむんもいつしか身を乗り出していた。揣摩さえ、皮肉な笑みを引っ込めて、静かに耳を澄ましている。
「……研究室で誕生した、人工のブラックホールも、それだけでは目に見えません。背景が歪んで見える程度です。そこで僅かなガスを吹きかけてみたのです。
……次の瞬間、猛烈な勢いでプラズマの噴流が発射され、真空装置を破壊し、研究所の分厚い壁に巨大な穴が空いてしまいました。
……与えたエネルギーを数億倍にして返すブラックホール。原理は未だ解明されていませんが、その価値は計り知れないものがあります」
そのとおりだ。現在の地球が抱えるエネルギー問題を、根こそぎ解決できるんじゃないだろうか。
「……先ほども言いましたように、ありとあらゆる人間が、この人工ブラックホールに吸い寄せられ、その生成原理を、発生装置の仕組みを知りたがりました。中には国家予算の半分を提供しようと申し出た中東の国もあったと聞きます。
……人工ブラックホールの技術を独占し、軍事利用できれば、世界を征服することだって可能でしょう。そう考えた人間がいたとしても不思議ではありません」
萠黄の背中を、冷たい汗がしたたり落ちた。
「……彼の身の安全を守るため、SPが配置されました。すでに数度の誘拐未遂が発生していたためです。それだけならまだしも、暗殺を予告する宗教団体まで現れる始末でした。そうなると一転、人々の彼を見る目はだんだん厳しくなり、平和を脅かす“悪魔”と罵る輩(やから)も増えてきました」
伊里江は唇をなめると、耳を傾ける三人の顔を順番に見回した。
「……ある日、彼はとうとう決断し、実行しました。
……SPに見つからぬよう、深夜、研究棟に隣接した寮を抜け出すと、研究室にひとりで潜り込みました。そして実験装置を破壊すると、すべての研究データを消去したのです。──彼はそのまま、いずこへともなく行方をくらましました。ただひと言、メモを残して。
……そこにはこう書かれていました。『私が作ったのは、ブラックホールとは似て非なるものであり、実験は失敗だった』と。
……その後、世のブラックホール騒動は一気に静まりました。彼は“食わせ者”の烙印を押され、いつしか人々の記憶から忘れ去られました。
……ですが、彼は食わせ者などではなく、本当に人工ブラックホールは生成されたのです。
……彼の夢はもちろん平和利用でした。
……有効に活用すれば、食糧問題やエネルギー問題が一掃されるはずだったのです。
……彼はそんな明るい未来を心に描いて、日々研究にいそしんでいたのです。なのに──」
伊里江は沈黙した。
萠黄はすっかり思い出していた。小学生の頃、そんな騒ぎが確かにあった。嘘をついたり、人を騙したりすると「ブラックホール!」と呼んだりするのも、一時流行した。
むんは俯いた伊里江に、優しい声で尋ねた。
「あなたはどうして彼の真意を知ってるの?」
その問いに、伊里江は震えを帯びた声で答えた。
「……彼、伊里江真佐吉は、私の実の兄なのです」
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