Jamais Vu
-41-

真相
(11)

 むんはソファの背もたれに身体を沈めた。伊里江をすぐ横で監視していた揣摩は、渋面を浮かべて腕を組んだままだ。
 ふたりとも明らかに当惑し、疑っている。伊里江が正常な人間なのか否かを。そして、これ以上、話を聞くことに意味があるのかどうかを。
 萠黄にしても、伊里江の話す内容は、あまりにも荒唐無稽であり、とてもじゃないが素直に受け入れることはできそうにない。
(でも──わたしには彼が嘘をついているようには思えない)
 直感である。
 彼との間でメール交換を始めたのは、今から二年半前。今日まで顔を合わせる機会がなかったが、週に二、三通はコンスタントにやりとりしていた。
 内容はコンピュータのシステム構築についてや、具体的な設計プログラムに関するものばかりだった。伊里江は次世代ネットワーク、萠黄はPAIの更なる進化と、興味の対象は全く異なっていたが、なぜかふたりは馬が合った。
 伊里江の文章には、冗談や軽口など一切なかった。常にパソコンのマニュアル並に硬い言葉で書かれており、時候の挨拶はおろか「こんにちは」「さようなら」すらなかった。当初、萠黄は面食らったものの、慣れると体裁を気にする必要がないため、気が楽になった。人見知りの萠黄が、メールだけの付き合いとは言え、これだけ長続きしたのは、そのせいかも知れない。
 彼の文体は常に簡にして要を得ていた。誇張もなければ曖昧さのカケラもなかった。
 その彼が初めて萠黄の前に姿を現したのだ。
 話し方もメールの文体そのままに。言葉遣いは一見丁寧だが、尊敬語も謙譲語も使わないところまで同じで!
 だから──なのだ。
 彼の話に真実味を感じてしまうのは。
 いや、きっと真実なのだろう。少なくとも彼はそう信じていることは確かだ。
 だが──もし、彼にとって話したくないことを尋ねられた場合、どういう受け答えをするのだろう?

「えっと、質問を続けます」
 間を取った後、むんはあくまでも冷静に、訊問の再開を宣言した。揣摩は、伊里江の話をデタラメと決めつけることにしたらしく、苦笑を浮かべながら、買っておいた飴をポイと口の中に放り込んだ。
「まず、北海道を消滅させたカラクリについて、説明して」
「……判りました」
 伊里江は拘束された両手両脚を動かして、居住まいを正した。話は長くなりますよと言わんばかりに。乗せられて、むんと萠黄も座り直す。揣摩はソファにだらしなく横座りしたまま、ニヤニヤと伊里江の顔を見上げている。

「……今から十年前、アメリカの大学で核物理学を研究していた日本人科学者が、日本のとある大学に教授として招かれました。
 ……当時、二十代半ばだった彼は、物理学界の俊英として世界的にも大きな期待が寄せられる存在でした。
 ……大学側は研究設備など、環境や予算についても破格のものを用意し、彼には自由な裁量権を与えられました」
 伊里江の声が、モデルハウスのリビングに響く。
 相変わらず抑揚に乏しいが、飛び跳ねるような聞きづらいイントネーションは影を潜めた。
「……彼の研究テーマは“ブラックホールの形成過程の仕組み”というものでした。
 ……日本の大学に移った三年後、彼は、研究室で最初のミニ・ブラックホールの“生成”に成功しました。宇宙のブラックホールがどうやってできるかを探っているうちに、本物のブラックホールを生み出してしまったのです。
 ……一般の人にとっては、ピンとこない話でしょう。しかしそれは大変なことなのです。宇宙の神秘の一端を解明していたはずが、神秘そのものを作り出してしまったのですから」
 思い出した。ずっと昔、テレビの特番で、司会者の男が「ブラックホールが、なんと日本で生まれました!」と叫んでいたのを。
「……ブラックホールと聞いて誰もが連想するのは、光さえも吸い込んでしまうほど強烈な重力を持つ、真っ黒な星──でしょうか。
 ……一九七〇年代、『はくちょう座X─1』が第一号と目されて以来、数多くの研究者を魅了してきたブラックホールですが、その実体は、二十一世紀を迎えた後も不明な点だらけでした。したがって、彼のグループが研究室内でブラックホールを生成したというニュースは、当初、悪い冗談と受け止められました。
 ……しかしながら、彼が自らの研究成果を学会で発表し、研究室──それは巨大な真空装置で、小型宇宙を模した空間をシミュレートできるものでしたが──の中で、公開実験が行われるに及んで、失笑や非難の声はすぐに驚嘆と歓声へと変わりました。
 ……あり得ないと否定してかかった物理学の権威や重鎮たちも、光はおろか、あらゆるものをその小さな空間に吸い込んでいくさまを間近で見せられると、しぶしぶ認めざるを得ませんでした」
 気のせいか、伊里江は少し遠い目になり、弁舌が熱を帯び始めた。
「……彼はすぐにも成果を論文にまとめ、広く公表するつもりでいました。ところが──」



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