Jamais Vu
-39-

真相
(9)

「……きちんとした自己紹介がまだでしたね。ご希望ならば話しますが、その前に──」
 伊里江は顔をしかめると、上体を前に折り曲げた。
「何か食べさせてくれませんか? じつはこの三日間、何も食べてないのです」
 なるほど、彼のやつれた顔や覇気のない動きは、それが原因だったのか。
「うーん、しゃーないわね」
 組んだ脚の上で頬杖をついていたむんは、ため息をひとつ吐くと、揣摩に向かって、
「コンビニで買ってきたものを食べさせてあげてよ」
 すると揣摩は、萎れていた花が急に息を吹き返したように、
「よしきた!」
 と威勢よく立ち上がった。部屋の隅に転がしたままのビニール袋を持ってくると、三人の前でにこにこと中身を開陳した。テーブルの上にはとても食べきれないほどのパンや菓子類が山積みにされた。
「買いすぎ……」
「この時間帯じゃ弁当類はほとんど残ってなかったんで、菓子パンとおにぎり中心に買ってきたよ。あとドリンクはこちら」
 言いながらテキパキと箸や紙おしぼりを配る姿は、じつに自然でかつ堂に入っている。芸能雑誌などでも、撮影現場における彼の評判がすこぶるいいという話はよく読む。トップアイドルなのに、プライドにこだわらないというか、人当たりの良さは生来のものなのだろう。
「彼の手だけ、ほどいてあげてよ」
 むんの言葉に揣摩は渋い顔を作ってみせたが、伊里江の後ろに回ると、腕を縛っていたタオルをほどいた。
 伊里江は自由になった両手を前に回し、青くなった手首を軽く振っている。そんな彼にむんが釘を刺した。
「今さら逃げたりしないとは思うけど、もし変な動きを見せたら、揣摩さんが黙ってないからね」そして揣摩に笑顔を向ける。「ねえ、揣摩さん?」
「おう、そのとおり!」
 失地回復のチャンスを得たとばかりに、傲然と胸を張って伊里江に睨みを利かす。
 萠黄は驚くばかりだった。むんは今日会ったばかりの揣摩の本質をすでに見抜いているばかりか、あまつさえ彼を操縦すらしてみせた。揣摩が想像以上に単純だということもあるが。ファンが知ったら非難の嵐が吹き荒れるだろう。自分もファンのひとりだけど。
 萠黄の知らないむんがそこにいた。

 しばらくは食事タイムとなった。
 伊里江は、空腹が嘘でないことを証明するように、ものすごい勢いでパンにかじり付いた。それを唖然として眺めながら、萠黄もむんもメロンパンを頬ばる。揣摩だけが場の緊張を和らげようとしてか、しゃべり続けている。
「教えてもらった駅前のコンビニ、二十四時間営業って書いてあるのに閉店の準備してたんだよ。店員に訊いたら、この辺り一帯は警戒中だから注意するよう警察に言われたらしい」
 せわしなく食べながらも会話は途切れることがない。これもスケジュールびっしりの一流芸能人ならではの技かと萠黄は思う。
「学園前駅って、特急が停車する駅だろ? 宵の口ならもう少し賑やかそうなものなのに、シーンとしてんだよ。──救急車だけはひっきりなしに走ってたけどね──駅員にそれとなく尋ねたら、電車も止めてるんだとか。俺たちが踏切で遭遇した車輌、乗客の姿がなかったことに気づいてた? あれは回送車だったらしいぞ」
 今度はおにぎりに手を伸ばす。話していても唾や米粒が飛んでこないのが不思議なくらいだ。
「柳瀬からさっき電話があったんだ。まだ警察署の中に留め置かれていて、依然身動きがとれないらしい。困ったもんだ。あの車があれば逃げるのも楽なのにな。
 彼が署内で小耳にはさんだ情報によると、パトカーや萠黄さんを襲った迷彩服の連中、どうやらアイツらは現場からアッという間に逃げ去ったらしい。でもまだこの辺りに潜んでる可能性があるんで、念のために非常線を張っているって話だ」
「警察では、迷彩服が萠黄を、と?」むんが尋ねる。
「ああ、パトカーから誘拐されたと考えてるらしい」
「──あの」久しぶりにに萠黄が口を開いた。「パトカーにいっしょに乗っていた警部さんたちは?」
 揣摩の咀嚼が一、二秒止まった。そしてまた動き出した。
「あの後、パトカーの中には、人型の砂が四体確認されたという」
 萠黄は面を伏せた。
 あの人たちは自分を守ってくれようとしていた。でもそのために殺されてしまった。わたしみたいな者のために……。
「俺、思うんだ」揣摩が買ってきた食料の半分近くを平らげたところで、こう切り出した。「警察の見解と違って、実際には萠黄さんはヤツらに捕まってはいない。ということは、連中はまだこの辺を捜そうとしているに違いない。警察の警戒の目をかいくぐって、再度やってくる可能性はあるとみた方がいいだろう」
 むんもその意見には素直に頷く。
「そうね。わたしも早くここから離れるのが得策だと思う。でも……逃げるにせよ、どこに逃げればいいのか、ううん、その前に知っておきたいのは、なぜ萠黄が狙われてるのかってことよ」
 むんは食事をペットボトルの麦茶で締めると、伊里江に向き直った。
「この人の話を聞けば、そこらあたりがハッキリすると思うねん。──さあ、食べるのはそれぐらいでいいんやない? そろそろ話してもらいましょうか?」



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