Jamais Vu
-38-

真相
(8)

「覚悟……?」
 萠黄とむんは互いに顔を見合わせた。
 揣摩はといえば、拳を振り上げた肩がいきなり脱臼したような顔をしている。
 外の風はさらに強さを増し、窓を覆う雨戸が煽られて、さっきよりも大きな音を立てて揺れている。
「……あなたがたが私の話に耐えられるかどうか」
 伊里江は相変わらず一本調子でしゃべり続ける。
「こ、この野郎、大上段に構えやがって。そんなの聞いてみなくちゃ判らないじゃないか!」
 揣摩は吠えるが、伊里江は一瞥をくれただけで、表情は固い氷のようにびくともしない。
「……その通りですね。私の問いかけは無意味でした。こうして虜(とりこ)になってしまっては、今さらどんな言い逃れもできないでしょうし」
「当たり前だろうが。お前、自分のやったことがどんなことか判ってんのか!」
「待って」むんが手を挙げて揣摩を制した。「この人に話させましょうよ」
 揣摩は不満そうに喉を鳴らしたが、肩をすくめると大仰な仕草でソファに背をもたせかけた。
 伊里江は何ごともなかったように再び口を開いた。
「……まずは、萠黄さんに質すことがあります。
 萠黄さん、右手を挙げてください」
 突然、自分にに向けられた要求に、萠黄は考えるより先に右手を小さく挙げていた。
「それは左手じゃないか。関西は右と左が違うの?」
 雰囲気に呑まれまいとしてか、揣摩は軽口をとばした。しかしむんは昨日萠黄から聞いた話を思い出したのだろう。ハッとした表情になった。
「……今度は、他の二人にも右手を」
 むんはおそるおそる、揣摩はふてくされ気味に挙手する。それは両者とも“左手”だった。
 伊里江は初めて、口の端をわずかに動かし、満足そうな表情を見せた。
「……続いて萠黄さんに確認します。昨日の朝、あなたの身にとんでもないことが起きましたね?」
 萠黄はすでにその質問を予期していた。この人は知っている。昨日、わたしに起きた驚天動地のできごとを。
「エリーさん、あなたは全部知ってるんやね」
「……もちろん」
 彼は頷いた。今度は明らかに微笑みを浮かべて。
「コラ、侵入者。置いてけぼりは困るぜ。ちゃんと俺にも理解できるように説明しろよ。今の手を挙げる実験にはどんな意味があったんだ?」
 しかしそれに応えたのは萠黄だった。
「揣摩さん、わたしの身に起きたことっていうのは、その……信じてはもらえないと思うんですけど、右と左がこう反対に入れ替わってしまったんです」
「へ………?」
「昨日の朝、目が覚めたら、まわりにあるものすべてが鏡に映したみたいに逆になってて」
「………」
 揣摩は顔をゆがませると、付き合いきれないと言わんばかりに席を立った。
「揣摩さん!」
「ごめん、俺ちょっと、他の部屋でアタマ冷やしてくるわ」
 そう言ってドアの方へ歩き出した揣摩の足を、伊里江の次の言葉が止めた。
「……萠黄さん、あなたのような人を連中は“リアル”と呼んでいます」
「──!」
 不自然な立ち止まり方をした揣摩は、振り向くと自分を注視している伊里江と目が合った。
「……揣摩さん、あなたは萠黄さんがリアルであることを、最初から知っていましたね?」
「違う! 俺は頼まれて彼女の髪の毛を渡しただけで、その結果、リアルだと教えられた……だけで……」
 いつの間にか三人の視線を一身に浴びていることに気づいた揣摩は、語尾を濁したが、もはや手遅れだった。
「髪の毛って?」
 むんが低い声で疑問を投げつける。
 揣摩は立ったまま、がっくりと肩を落とした。
「……フム」伊里江はそんな揣摩の態度も目に入らないかのように話しかける。「二人に説明してください」
 揣摩はぎゅっと目を閉じたまま、ぎこちなく首を左右に振った。そしてゆっくりと床に膝をつくと、
「申し訳ない。──彼女がリアルかどうか判定するのに、最低でも髪の毛が一本必要だというので、彼女に気づかれないよう拾い上げてハンカチにくるみ、マネージャーの柳瀬に手渡しました。柳瀬はそれを総理の連絡員らしき人間に手渡し、最終的に俺の知らないところで判定がなされたようです。
 ──萠黄さんはリアルであると」
「それってDNA鑑定みたいなもんやないの? 明らかに人権侵害じゃない!」
 むんが容赦なく非難の声を浴びせる。神妙にうなだれている揣摩。それはかつて萠黄の見たこともない超アイドルの意外な姿だった。
 それでも萠黄は不思議に怒りというものが湧いてこない。状況説明ばかりで、話の大筋が見えないこともあるが、すべてが夢物語のような気がするせいでもある。
 増えるばかりの謎に対する思いはむんも同じだったらしい。業を煮やした彼女は伊里江に向き直ると、強い口調で詰問した。
「なんであなたは揣摩さんが隠していたことが手に取るように判ったの?
 ──いえ、そもそも、あなたはいったい誰?」



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