Jamais Vu
-30-

敵と味方 II
(9)

 ズーーーン。
「何の音だ?」
 閑静な住宅地に似あわない地響きのような音。
 揣摩は身を乗り出すと音の源を探した。その肩をハンドルから離した柳瀬の手がつついた。
「タロちゃん、あそこ」
 柳瀬は渋滞する車の列のずっと前方を指さしていた。揣摩の目に黒煙と、赤く光るものが見えた。
「パトランプじゃないの」
「それってパトカーの上で光ってるヤツか。まさかさっきの音──」
「あのへん走ってるパトカーって、萠黄を乗せてるのと違うの!」むんが叫んだ。

 萠黄は上も下も判らなくなって重力の感覚を失った。 と、直後、車体は地面に叩きつけられ、頭や背中をいやというほど天井に打ちつけた。それでも左右をサンドイッチしていた警官たちが緩衝材の役割を果たしてくれたため、怪我をしないで済んだ。
 身を起こしすと車内は地獄絵図だった。運転手は座席ごと姿が見えず、助手席の警部はわずかに首を振りながら何ごとかつぶやいている。左隣にいた警官は大きな身体をくの字に曲げており、首が異常なほどねじ曲がっている。ヒッと叫んで後じさると、背中にいたもうひとりの警官の吐いた血が萠黄の手にかかった。
 絶叫が心の底から湧き上がったが、痰が絡んで声にならない。
「萠黄さん……無事か?」
 警部のたどたどしい声に萠黄は思わずヘッドレストに顔を寄せた。
「バズーカで攻撃って狂ぅとんで。ここは日本やぞ」
 警部は首をねじると弱々しい眼差しを萠黄に向けた。
「早よ逃げろ。アイツらが来よる」
 警部が顎を動かしたので外を見ると、ヘリコプターから垂れたロープを滑り降りてくる迷彩服が目に入った。彼らは手に手に武器のようなものを持っていた。
「アンタを狙ぉとるんや。急げ、私がヤツらをくい止めるから」
「警部さんもいっしょに逃げよう」
「無理や。足が挟まれて動かれへんのや」
 ひしゃげた車体が警部の足に噛みついていた。おそらくひどい痛みなのだろう。引き抜こうとするたびに顔をしかめる。
「窓から這い出ろ。急がんと殺されるぞ」
(殺される──)
「誰か呼んできますから、待ってて」
 萠黄は、すでに事切れている警官の巨体を押しのけ、歪んだドアを手で押し広げると、道路の上に転がり出た。
 潰れたパトカーは車道を塞ぐように横向きになっていた。後続の車はせき止められたまま、長蛇の列をなしている。しかしヘリによる攻撃に恐れをなし、ある者は車を乗り捨てて逃げ、ある者はUターンするつもりが、あわてて歩道に乗り上げ、そのまま壁にぶつかったりしていた。
(逃げるって、どこへ)
 足に自信のない萠黄は、その場で立ちすくんでしまった。すると彼女の優柔不断をあざ笑うように、無機質な足音がタッタッと近づいてきた。身の危険を感じた萠黄は、考えるより先に身体が動いて、歩道脇の茂みに頭から飛び込んだ。
 幸運だったのは、パトカーの上げる煙が彼女の動きを隠してくれたことだ。茂みの中で息を殺していると、足音がいくつも近づいてきた。
「いないぞ」
「逃げやがったな。探せ!」
 萠黄はようやく“敵”の姿を間近で見た。
 日本人のようだが、まるで外国で戦争するような迷彩服にマシンガンを持ち、顔にまで迷彩を施している。
(このひとたちが母の命を奪った……)
 ダーン。
 突然、銃声が轟いた。迷彩服のひとりが「グァッ」と叫ぶと道路の上に倒れた。
 ダーン。さらに銃声が響く。警部が撃っているのだ。
「くそっ。コイツ生きてるぞ!」
 迷彩服たちがマシンガンを構えなおした。
 ガガガガガッ。
 萠黄は耳を両手で覆った。
(なんなのコレは)
 昨日まで生きていた母が死に、さっきまでそばにいた警部が今また──。
(こんなの違う。わたしのいる世界じゃない。昨日までのありふれた日常に帰して!)
 萠黄は茂みの中でひたすら小さくなっていた。心の中は膨れていく怒りと悲しみでいっぱいにしながら。
 迷彩服はやがて駆け去った。
 閑静な住宅地は、もとの静けさを取り戻したようだが、空にはまだヘリコプターの音が。
「萠黄」
 いきなり耳のそばで声がしたので、萠黄は心臓が爆発するかと思った。声の主は彼女の親友だった。
「むん」
「無事やったんやね。良かったー」
 ふたりは手を取り合って喜んだ。むんの後ろには揣摩の顔もあった。
「萠黄さん、怪我はない?」
「ハイ、ちょっと擦りむいた程度です」
 むんは親指で揣摩を指さすと、
「このお兄さんが萠黄を大学から連れてきてくれたってホンマ?」
「ホンマよ……もしかして、むんは揣摩さん知らん?」
「だってわたし休学中やん」
「そやのぉて。わたしの部屋に貼ってあるポスター、あれが揣摩さんよ」
 むんはこれ以上ないほど丸い目をして揣摩をかえりみた。
「アンタ、芸能人やったん?」
 すると揣摩は胸を張って、
「グループ“ダ・ヴィンチ”の揣摩太郎とは俺のこと」
 おそらくは萠黄の恐怖心を取り除こうと、わざとおどけた口調で言ったのだろう。しかしむんにはさほど効果はなく「ふーん」と言ったきりだった。揣摩は当てが外れて、がっくり肩を落とした。
「ごめんね揣摩さん。むんはテレビ見やん人やから」
 その時またヘリコプターの近づいてくる音がした。
 三人の表情がこわばった。
「萠黄さん。道路に落ちてたよ」
 揣摩が萠黄のリュックを差し出した。礼を言って受け取った萠黄は、
「どうしたらええんやろ」
 すると揣摩が空を見上げながら、
「逃げよう。警察も頼りにならないし」
「ウン、ここでグズグズしてたら危ないわ」とむん。
 萠黄もうなずいた。そして依然煙をあげているパトカーを振り返ると、両手を合わせて拝んだ。
(警部さんありがとう。あなたのことは一生忘れません)
 三人は目立たないよう、住宅の間を縫って低い方へと降りていった。その後ろ姿を少し離れたマンションの屋上から、じっと双眼鏡で見ている人影があった。
 人影は武器を持っているわけでもなく、着ているものは灰色のTシャツにグレーのジーンズという、いたってありふれたものだった。
 やがて人影は、三人の行方を確認するとすばやく立ち上がり、急いでマンションの階段へと向かった。



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