Jamais Vu
-28-

敵と味方 II
(7)

 最後にひと目、母の顔を、と言われて警部はしぶしぶ承知した。
 警部が砂状化した人体を目撃したのはこれまでに三件。いずれも取り乱す家族を鎮めるのに大層苦労した。バイク事故で重傷を負った孫が徐々に砂になっていく姿を見て、心臓発作を起こした老人もいた。誰だってあんなものを見せられたらおかしくもなる。
 萠黄というこの娘はどうか。一見、ひ弱ではかなげな印象を受けるが、話している彼女からは、なにやら熱気のようなものを感じた。
 この娘は悲しんでいるのではない。怒っているのだ。

 布の端を両手でつまみ上げると、母の顔はわずかに微笑んでいた。
 時刻は夕方にさしかかる頃。外はすっかり雲が広がっていて、室内はますます陰鬱な色を深めていた。
 母は美しい──そう思った。肌はすでに塗り固めた砂と化していて、まるで精巧に作られた人形のようだった。
 最後に口を利いたのは、昨夜。
《ご飯食べないの?》
《いらない》
 よりによって最期の会話がこんなのって……。 
 萠黄は瞬きもせずに母の輪郭を目でなぞった。
 口うるさくて、がさつで、うざったい母。
 でも突然こんなふうに死んでしまうなんて。
 ──ズルい。
 無性に腹が立つ。でもこの怒りは母に対してじゃなく、自分に対して。自分がもっとおとなだったら、母はいい思い出を抱いて天国に行くことができただろうに。
「そろそろ、ええかな」
 警部に促されてゆっくり腰を上げた萠黄は、わずかにバランスを失って床にトンと膝を打ちつけた。
 アッという小さな悲鳴が漏れた。
 見ている前で、母の右の耳たぶが付け根からこそげ落ちたのだ。耳たぶはフローリングの床の上に落下すると、粉々に砕け散った。
 そのとたん萠黄の涙腺は決壊し、とめどもなく涙があふれ出した。
 医師があわてて母を布で覆い隠した。しかし、母の頬に走った一本のひび割れがしっかりと目に焼き付いてしまった。
 あとはもう何も見えなかった。

 泣き疲れた萠黄を、警部はつとめて優しく介抱した。日々仕事に明け暮れ、ろくに団欒を共にできない一人娘を思いだしたのかもしれない。
「当面必要な服だとか、身の回りのものだけ持ってくれるかな。足りないものがあったら、あとで婦人警官に取りに寄越すから」
 泣き腫らした目も乾かないうちに、萠黄は自分の部屋で身支度を整えさせられた。
 下着にタオルに文房具に。旅行用のリュックにあわただしく詰めていく。
「も〜〜え〜〜」
 だしぬけに、床を這うような低い声がした。
「モジ?」
 今の今まで彼のことはすっかり忘れていた。携帯電話は布団の下で、薄情な持ち主を非難するようにチカチカ光っていた。
「ごめんな」
 モジはいつもより一回り小さな姿で、画面の隅に丸くなっていた。
「……どうしたん?」
 コッコッ。部屋のドアが外からノックされた。
「萠黄さん、そろそろ行きますよ」と警部の声。
「判りました」と返事し「また後でね」とモジに言うと携帯を二つに折って、リュックのサイドポケットに放り込んだ。
 玄関を出たところで両側から屈強な警官ふたりにはさまれた。我々が署までお守りしますと、四角ばった口調でつばを飛ばす彼らに、お願いしますと頭を下げた。
 エレベータで降りた一階ロビーには十数人のマスコミ取材陣が待ちかまえていて、ある者はカメラを向け、ある者はマイクを差し出しながら萠黄に駆け寄ってきた。
「無差別爆破テロと聞きましたが本当ですか?」
「死者数人との噂がありますが、生物兵器ですか?」
「若者が集まって集団ガス自殺を図ったとか?」
 てんでバラバラ。憶測や流言が勝手に一人歩きしている。そんな彼らの目に、警官に固められて現れた少女の姿はどう映ったか。
「あ、あなたが犯人ですか?」
「集団自殺の生き残りですかー?」
 ライトが光る、フラッシュがバシバシたかれる。
「くそ、救急隊員や警察はどこも人手不足やのに、マスコミの連中はどこからこんだけ湧いてきよるんや」
 警部は悪態をつきながら突き進む。ふたりの警官に守られた萠黄がすぐ後ろからついていく。
「萠黄!」
 誰かが萠黄の手首をつかんだ。ハッと目を向けると、親友の顔がすぐそばにあった。
「むん!」
「バイト先のテレビニュースで見たよ。大変やったね」
 その言葉を聞いて、萠黄はようやく救われた思いがした。



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