母の遺体には頭の上まで布がかぶせられた。
萠黄は警部に伴われて、隣りの和室へと移った。リビングを出るとき、部屋の隅に小さく盛り上がる砂山があることに気がついた。砂には千切ったような茶色い毛玉がいくつも混じっていた。
間違いなくウィルの亡骸だった。
警部はリビングとの境の引き戸を閉じると、御愁傷様ですと言い、さらに失礼と付け加えて畳の上に腰を下ろした。萠黄も警部の対面に膝をそろえて座った。
「こんな時に済まないが──」
「どうして母は“砂”になったんですか?」
萠黄は畳に目を落としたまま、抑揚のない声で質問をぶつけた。
警部は口をつぐんだ。そして腕組みをすると、天井の木目をじいっと睨んだ。
「うちの猫も隅っこで砂になってました」
「ああ」
「……犯人のスモーク弾のせいですか?」
「いや、関係ない」
「じゃあ」
「その話はまた後日にしましょう」警部はぴしりと膝を叩いて立ち上がりかけた。「申し訳ないけど、これから署までご足労願えますかな?」
「──救急車」
「えっ」
「昨日から救急車の出動回数が激増してる理由って、これなんでしょう?」
「………」
「秘密なんですよね、一般大衆が騒ぎ出さないように」
片膝の姿勢のまま、警部は唇を歪めた。
「一般大衆って、アンタ、大仰な物言いやな」
「インターネットの裏世界では、もうかなり情報交換がなされてますよ。警察が否定するのなら、外に集まってるマスコミのかたにお話しします。今日ここであったことや見たことを全部」
警部は口を真一文字にして、萠黄の顔に鋭い視線を注いだ。
萠黄は警部のくたびれたネクタイの先端に心を集中していた。人見知りのわたしが警察の偉いさん相手にカマをかけたのだ。やるならトコトンやらないと。
むんならこんな時でも毅然とした態度で臨むことだろう。できるならむんになりたい
。
「──萠黄さん」
警部は呼び方を変えた。
「お話したら、アンタ、秘密を守ってくれますかな?」
「ハ、ハイ」殊勝にうなずいてみせる。
警部は座り直した。煙草を吸いたそうな素振りを一瞬見せたが、あきらめたようだった。
「救急車の話、アンタが指摘したとおりや。昨日の朝から休む暇もないぐらい走り回っとる。ご指摘のとおり、“人体砂状化”現象のせいでな」
「すなじょうか……」
「確かな情報によれば、日本だけやのうて世界規模で起きてる現象らしい」
「……いつから」
「やっぱり昨日の朝から一斉に。まさに珍現象、いや」チラと萠黄を見て「怪現象やな」
「怪我をしたら、傷口から砂になっていく──」
「転んで擦りむく程度なら大丈夫やけど、大怪我するとほぼ確実にアカンらしい」
萠黄の脳裏にさっき見た母の足がよみがえった。
「医療現場では絵に描いたようなパニックが起こっとる。そりゃそうや、治療しようっちゅう目の前でホラー映画みたいなことが起こるんや。今朝、全国の病院や警察、消防署なんかに対して政府からの通達があって、現場は冷静に対処するようって言われたけど、原因も判らんのに冷静でおれるか!」
吐き捨てるように警部は言い放った。
「判らないんですか」
「ああ。伝染病の噂もあったけど、世界同時多発で発病するっちゅーのもヘンな話やろ」
それじゃまるでコンピュータウイルスだ。
萠黄はうつむいた。そんな彼女のつむじを見下ろしながら警部は口調をやわらげて、
「──そんなことより、いま問題なんはアンタの身柄の安全や」
「えっ」
「えっ、やあらへんがな。お母さんの最期の言葉聞いたやろ。侵入した賊の狙いはアンタやねんで」
自分がネラワレテイル。わたしみたいな平凡な一市民が、ひ弱な一女性が、なぜ?
「なんで狙われとんのか、心当たりはありまっか?」
「……まったくありません」
「まあ、つづきの話は署でうかがいましょう。ここじゃアンタの身の安全も保証でけへんしな」
萠黄は警部といっしょに腰を上げた。
「あの、警部さん……生意気言ってすみませんでした」
「なんのなんの。どうってことあらへんよ」
和室を出ると、鑑識の作業はあらかた済んだらしく、人影もまばらで、家の中は静けさを取り戻していた。
リビングの端には、布をかぶった母の遺体が、同じ場所にそのまま安置されていた。
布のふくらみを見つめていた萠黄は──
「もう一度、お母さんの顔が見たい」
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