めくられた布の下、あるはずの場所には右足がなく、左足は膝から下がなかった。
周囲から急速に音が失われていった。
萠黄は見たものを信じることができなかった。現実感がなかった。世界が裏返ってからこのかた、夢の中にいるような心持ちの彼女にとって、今ほど現実感が乏しく感じられたことはなかった。
──足はどこ?
「お嬢さん!」
鋭い声が萠黄を正気に戻した。ふらついた萠黄の肩を警部が後ろから支えた。
「すみません。大丈夫です」
警部が手を離すと、萠黄はゆっくりと前に進み、母親のそばに両膝をついた。
医師が布を元通りに掛けようとしたので、萠黄は待ってと頼んだ。
「よく、見せてください」
医師はため息をつくと、そのまま引き下がった。
本当は見たくなんかない。
怖くてしょうがない。逃げたくてしょうがない。でも逃げ場なんてどこにもない……。
「賊のスモーク弾が、お母さんの足を直撃したんです」
腰をかがめた警部が説明した。
母は上下とも下着だけにされていて、怪我をした部位がよく見えた。
萠黄は不審に思った。どうして包帯すら巻かれてないのか。しかし答えはすぐに判った。
母の身体は、足の付け根から土気色に変色していた。そして驚くべきことに、萠黄が見ている間にも肌の質感を失った身体がボロボロと床にこぼれ落ちていく。まるで砂浜で作ったお城が、波にさらわれて崩れていくように。血が流れ出さないのは同じように砂状化してしまったからだ。
萠黄は医師に顔を向けた。
「お願い。お母さんを助けて!」
しかし医師は目を閉じて首を左右に振った。
「そんな! お母さん、どうなるの?」
「……もえ、ぎ」
萠黄はハッとなって振り向いた。母の目がわずかに開いていた。
「お母さん、わたしが判る?」
萠黄はすぐに母親の口を覆うマスクに手をかけたが、医師があわてて止めた。
「待って。慎重に外さないと危険です」
医師がていねいに取り外すと、景子は咳き込んだが、すぐに目をしっかりと開いて、
「あらあら……萠黄。あんたもう帰ってきたんやね……。学校には……ちゃんと行ったん?」
「わたし──行ったよ」
「ほならええけど……留年なんかしたらあかんで。学費かかるんやから」
「お母さん──そんなことより、今日は大変やったんでしょ? 泥棒が入ったって」
「……そやそや……なんか映画の撮影みたいに屋上からロープ垂らして降りてきたんよ。……窓ガラスを簡単に割って入ってきてな……“おまえは光嶋萠黄か?”て、いきなり訊ねよってん」
萠黄の後ろにいた警部が「何やて?」と声を上げた。
景子は話し続けた。
「……理由は判らへんけど、この連中は萠黄を誘拐しよと思てるんやなて気づいたわ。でもわたしと間違えるなんてな。よお知らんみたいやった……で、わたし言うたったわ。“そうや。わたしが萠黄やけどアンタら誰や!”て。……そしたら後ろから羽交い締めにされてしもて、無理矢理わたしの髪の毛を一本取ってな……なんか小さい機械にはさんで。しばらくしたらブーって音がして。“違う。萠黄じゃない”てバレてしもた。……他の連中は、あちこち部屋を覗いてたけど、あんたがおらへんと知って、そんなバカな、て言うてた。で、わたし大声で“ドロボー”て叫んだったんよ。窓が割れてるから外に聞こえたやろね。連中は泡食って逃げ出しよったわ。それで追いかけたらヘンな鉄砲に足を撃たれて……萠黄、その人、誰?」
「この人はお医者さんや。白衣着てはるやろ? お母さんの身体を心配してくれてはんねん」
「ほんまに? ……わたしやっぱり怪我したん?」
その時どさっと大きな音がした。顔を向けた萠黄は息を飲んだ。すでに景子の身体の変色は下腹部にまで達しており、尻のあたりが大きな固まりになって、こそげ落ちたのだ。
「ううん、大したことないって」
萠黄は景子の手のひらを両手で包むようにして持ち上げた。景子はホッとした表情で我が子を見上げた。
「萠黄……あんた今日はいつもと顔が違うねえ」
そうなのだ。母親からすれば萠黄の顔は左右反対。そして萠黄にしても母景子の顔は知っているものと微妙に異なっていた。
「そお?」
「ウン……なんかオトナっぽいわ……もうすぐ成人やもんね。いっぱい恋せなあかんよ」
「お母さん、ナニ言うの。恥ずかしい」
リビングの入口で騒々しい声がした。振り向くと揣摩が刑事ともみあっていた。
「あらあらまあ……もしかして萠黄のカレ氏? ちょっとエエ男やないの」
警部が無言で合図すると、揣摩を押さえていた若い刑事は手を離した。
萠黄は作り笑いを浮かべながら、
「わたしも年頃やからね。こう見えてもモテるんよ」
「そうか。安心したなあ」
そう言うと景子は力なく吐息を漏らした。
「なんか眠たぁなってきたわ」
「疲れたんよ。ゆっくり寝て」
「ウン、そうするわ……おやすみ」
「おやすみ」
景子はしばらく寝息を立てていたが、五分もしないうちに静かになり呼吸が停止した。医師の見ていた機械はピーッと持続音を鳴らすと、画面にフラットラインを映し出した。
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