Jamais Vu
-25-

敵と味方 II
(4)

「まあ待ちなさい。まだ鑑識も済んどらんから不用意に入ってもろたら困るんや」
 警部は背後で現場を指揮している若い刑事に声をかけた。
「中に尋ねてくれ。娘さんが帰ってきたんで、会わせてあげられるかどうかて」
 若い刑事はすぐに室内へと消えた。普段なら玄関から奥まで見通せるはずなのに、ごった返す人たちでひしめいていて、母がどこにいるのか判らなかった。
 ごった返しているのは萠黄らのいる共用廊下も同じだ。警部はじゃまにならないよう、ふたりを階段とは反対の奥まったほうに連れて行った。
「煙はガス爆発のせいですか?」
 黙って待つのに耐えきれなくなった揣摩が警部に訊ねた。警部は「違う」とすぐに否定したが、関係者でない揣摩に説明するのに抵抗を感じたらしく、萠黄に向かって語りかけた。
「爆発やなかったんですよ。煙の元は賊の放ったスモーク弾のようなものでした。ここの住民の目撃談によると、テロリストみたいに武装した五人組がこの家を襲撃したらしい。侵入口はバルコニーで屋上から降りてきたようです。バルコニーに面したガラスが割られていました。家の中にはあなたのお母様が居合わせ、大声を出されたので、お母様に向けてスモーク弾を放って逃げた」
 その時、けたたましい音をたてて、新聞社のヘリが頭上を通り過ぎていった。他にも数機が見え隠れする。警部は空に向かって舌打ちしながら、
「煙の量が多かったんでマスコミの連中は爆発と早合点しよった。そのうえ妙な侵入者という話を聞きかじって勝手に騒いどるんですよ」
「賊の目的は何だったんですか?」
 揣摩がもっともな質問を投げかけた。
「それが皆目検討もつかん。武装した人間が徒党を組んで、なぜ六階にあるこの部屋を狙ったのか。部屋の中には物色した痕もない。今の段階では不明だ」
 そう言うと警部は腰を少しかがめて、萠黄の顔をのぞきこんだ。
「お嬢さん。あんたに心当たりはありまへんか?」
 萠黄は首を左右に振った。警部はさらに問うた。
「お父さんはどちらにお勤めですか?」
「父はおりません」
 萠黄はきっぱりと言った。
「失礼。そうでしたか」
 その時、鑑識課員たちを押しのけるようにして、さきほど若い刑事が飛び出してきた。彼は廊下の隅に倒れるようにうずくまると、激しく嘔吐した。
「……ひどすぎる!」
 刑事の言葉を聞くと、萠黄はダッと身体をひるがえし、玄関へと飛び込んだ。虚を突かれた警部は止める暇もなかった。
「萠黄さん!」
 揣摩も後を追おうとしたが、警部に肩をつかまれて制止させられた。
「君の名前を聞いとらんかったな」
「僕を知らないんですか。揣摩太郎ですよ」
「人と話すときはサングラスぐらい取るもんや」

 萠黄がリビングの入口に現れたとき、周囲の人たちはようやく彼女に気がついた。鑑識課員たちが手を止めて見守るなか、萠黄は母の枕元に一歩一歩近づいていった。
 バルコニーの割れたガラスには幅広のブルーシートが張られている。ヘリからの目隠し対策も兼ねているのだろうが、そのせいで部屋の中は電灯がついているにもかかわらず薄暗い。
「お母さん……」
 萠黄の母は割れたガラス戸のそばに横たわっていた。胸のあたりから爪先まで白い布ですっぽり覆われている。布の下からは何本ものチューブや電極線がそばに置かれた機械に伸びていて、ピッピッと電子音をたてている。母の口許にかぶせられたマスクが、曇ったり晴れたりをゆっくりと繰り返している。
 萠黄は母の姿を目の当たりにして、悲しみではなく怒りがこみ上げてくるのを感じた。萠黄は、沈痛な面もちで機械を操作している白衣の男に向かって叫んだ。人一倍の人見知りを自称する萠黄には珍しい行動だ。
「どうして母をベッドに上げてくれないんですか!」
 母はフローリングの床の上に、おそらくは倒れたときのまま寝かされていた。白衣の男の脇には持ち込まれた折り畳みベッドが見える。なぜ使わない?
 白衣の男は困惑の表情を浮かべた。ちょうどそこに警部が駆け込んできたので、彼はすがる思いで視線を警部に向けた。玄関からは「手を離せ。なんで俺を入れないんだよ」という揣摩の声が聞こえる。
「お嬢さん。さっきも申し上げたとおり、お母さんは動かせない容態なんです」
「でもせめてベッドに」
「それが無理なんですわ」
 警部はしかたがないという顔つきで白衣の男に目顔で合図した。白衣はため息をつくと、母を覆っている布をおずおずと持ち上げた。
「うぐ──」
 萠黄は口許を押さえて一歩後ずさった。さきほどの若い刑事の反応は決して大げさではなかったのだ。



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