Jamais Vu
-23-

敵と味方 II
(2)

 揣摩と肩を並べてキャンパスを歩いている間じゅう、萠黄は天にも昇るような気持だった。揣摩はサングラスをかけていたが、それでも正体を隠しきれず、女子学生の一団が遠巻きにぞろぞろ付いてきた。
 それでも視察は順調で、とある部屋をのぞき込んだ揣摩は、
「ここは版画を刷る部屋かな」
「……そうみたいですね」
 萠黄はガイド役にはまったく不向きだった。学校の仕組みを把握していない休みがちの一年生には当然の話。それでも揣摩は文句ひとつ口にせず、萠黄を帯同させた。途中何度か携帯で仕事の打ち合わせを行い、寄ってきたマネージャーにポケットのハンカチを交換させた以外は、少しも芸能人らしい素振りを見せなかった。

 近所の喫茶店で軽く昼食を済ませ、ふたりは情報処理教育棟にやってきた。一階のロビーはインターネットカフェになっていて、学生たちが新種のPAIのダウンロードや、PAIの助けを借りた情報検索などを楽しんでいた。
「いい大学だね。これからの学生生活が楽しみだよ」
「気に入ってもらえて、うれしいです」
 萠黄はすっかりうち解けた気分になっていた。会ったばかりの、それも異性とこんなに長時間いっしょにいたなんて前代未聞だ。驚天動地だ。天下の一大事だ。
「すっかりお世話になったね」
「いえ、そんな……」
「あのさ、このあと時間ある?」
 わわ──これってナンパ? それとも考えすぎ?
 あります、と即答するのもミーハーっぽいかな。
 とにかく一拍おいて心臓の動悸を落ち着けないと。

《……現場は奈良市、富雄駅のそばで……》

 萠黄の思考は寸断された。目が声のほうを向く。
 ロビーの壁面には大型液晶テレビが設置されていて、たいていはNHKが流れている。今そこにはLIVEの文字と、割れたガラス窓からたなびく灰色の煙が大写しになっていた。
 いやな予感がする。
 萠黄は揣摩がいることも忘れ、テレビの前に近づいた。映像は切り替わり、マンションの全景が映し出された。
「あぁっ」
 左右反対でも自分の住んでいる建物ぐらいは判る。でも煙が出ているのは──。

《611号室とのことです》

 ふいに足許の床が抜け、支えを失った萠黄は身体をぐらつかせた。
 帰らなきゃ。帰らなきゃ。
 ふらふらと出口に向かった彼女の手を揣摩がつかんだ。
「どこ行くの?」
 萠黄は揣摩がいたことに今気づいたように顔を上げ、
「あのニュースに映ってるの、ウチなんです!」
「な──」
「すいません。わたし、これで失礼します」
 深々とお辞儀をし、またすぐ出口に向かおうとしたが、揣摩は彼女の腕を離さない。
「ダメだ」
「ダメって──」
「今あそこへ行くのは危険だ」
「危……険」
 萠黄は揣摩の顔を見上げた。揣摩はわずかに顔をそむける。
「何かご存じなんですか?」
「いや、まさか……」
「それなら行かせてください」
「おウチには誰かいるのか?」
「猫のウィルが……」
「ご家族のかたは?」
 揣摩はサングラスをはずした。途端に周囲で黄色い声があがる。揣摩太郎よ!
「今日は──あっ、母さんのパートがお昼までの日だ。そんな、どうしよう、もしあの煙の中にいたら……」
 萠黄は腰から力が抜け、その場にしゃがみこんだ。
 揣摩はしばらく足踏みをして何ごとか思案していたが、やがて決心したように、
「判った。それじゃ俺の車で行こう。電車よりは速い。さあ立つんだ」
「は、はい」
 揣摩は携帯でマネージャーにすぐ来るように命じると、萠黄を促して、建物の外に飛び出した。



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