萠黄は膝のバッグを両手でぎゅっと握った。そうでもしないと自分の魂がどこか遠くに飛んでいってしまうとでもいうように。
萠黄の右側わずか拳三つ分の距離に腰掛けた憧れの人、揣摩太郎。彼は胸元から煙草を取り出してくわえると、流れるような動作で火をつけた。
煙が萠黄のところに流れてくる。口を押さえるより先にゲホゲホッと咳が出た。
「あぁ、煙、苦手? ごめんごめん」
揣摩はくわえて間もない煙草を、足許に敷き詰められた石畳で軽くもみ消すと、少し離れた灰皿スタンドめがけてポイッと投げた。吸い殻は見事その中に飛び込んだ。
「す、すみません」
激しく頭を下げる萠黄。
「なあに、いいよ。最近本数が増え過ぎてるんでマネージャーにも減らせって言われてたしね」
彼のヘビースモーカー振りは、萠黄も小耳にはさんだことがある。たしかネットのジャニーズ関連の掲示板で。
萠黄は生まれつき煙草の煙が体質に合わない。小学校の遠足の時だったか、列車の喫煙席に迷い込み、ひどい痙攣(けいれん)を起こして倒れたことがある。
石畳の上に付いた黒い消しカスを見ながら、神経質な彼女はさらに考えてしまう。もし灰皿が見あたらなかったら彼はどうしたろう。地べたにポイ捨てしたかな?
憧れの人にはそんなことしてほしくない。だから逢いたいなんて本気で思ったことはない。逢うとイメージが壊れるのが怖かったから。
それだけの理由でダ・ヴィンチのコンサートすら行ったことがないのに。
「あの、どうしてわたしの名前をご存じなんですか?」
萠黄は震える唇を精一杯広げて話しかけた。それでも出てきた声は蚊の鳴くような声だった。
揣摩の答えは明快だった。
「さっきキミ、教務課に行っただろ。すぐ後に受付に顔を出したら、キミの登録カードが見えたんでね」
なんだ。判ってしまえば他愛もない。
「それで君に学内を案内してもらおうかと思って追いかけてきたのさ。暇そうだったし」
萠黄の顔にまた血が上った。観察されてたんだ。
「で、でも──」
「どうしてアイドルの俺がここにいるのか、かい? じつは今年の春から東京を離れて、神戸に住んでるんだ」
「知ってます」だってファンだから。
「へえ、うれしいな。──とにかくあわただしい東京を離れたい一心だったんだ。昨年はコンサートと大河ドラマを同時にやったんで、身も心もくたくたになったし。このままじゃいずれ燃え尽きてしまう、東京にいたら仕事仕事で自分を見失ってしまう。そう考え始めて悩み始めて、気がついたら関西にいたってわけ。北海道出身の俺なのに、なんとなく肌が合ったしね」
「あ……このたびは……ご愁傷様です」
揣摩太郎は、あの消失事件で実家の両親を失っている。
「ありがと。まあそれで住む場所を変えたら、今度は向学心みたいなものが湧いてきてね。俺、高卒だからこの際、大学で勉強してみようかって思ったわけ。それで今日こうして下見に来たんだ。ご理解いただけたかな」
「ハ……ハイ」
さっきから揣摩は何度か萠黄に顔を向けているのだが、萠黄の方は銅像のように固まったまま、一度も揣摩を見ていない。もし視線が絡んだりしたら失神する可能性があるし。
それにしても、なんて偶然、いや幸運。ずっとファンだった人がたまたま同じ日に同じ場所にいるなんて。ましてや同じ大学で勉強──ええっ、同級生になる!?
「ねえキミ、萠黄さん。よかったら本当にキャンパスの中を案内してくれないかな?」
言いながら揣摩は立ち上がった。
「わた、わたしで、いいん、ですか?」
萠黄は息も絶え絶えである。
「ああ、キミにお願いしたいんだよ。どうせならキミみたいなカワイイ女の子にお相手してもらいたいからね」
揣摩の甘い言葉は呪文のように萠黄の心を溶かした。熱を帯びた顔を上げた萠黄は、初めて揣摩の視線をまともに浴びた。揣摩の微笑みはポスターの数百倍、魅力的だった。
これは夢?
いいえ夢でもいい。19年生きてきて今日が人生最高の日やわ。人生のどんでん返しってあんねんね。それで世界がひっくり返ったんやわ。よく判んないけどきっとそうよ。きっと──。
揣摩に促されて立ち上がった萠黄は、おぼつかない足取りのまま、いっしょに並んで歩き出した。
その直前、揣摩は萠黄には見えないように、ベンチに落ちていた彼女の髪の毛を一本つまみあげた。そして素早くハンカチに包むと、さりげない仕草でポケットにしまった。
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