Jamais Vu
-21-

敵と味方 I
(10)

 萠黄は、来る途中の電車での会話を反芻(はんすう)した。

「夕べ、電話したんよ。そしたらモジ君が代わりに出て、萠黄はただいま就寝中ですって」
「そうやったん。ごめん。なんか異様に眠くって」
「で、どう? 事態は改善された?」
「とんでもない。昨日とゼンゼン変わらへんわぁ」
「そっか……。萠黄のたいへんさを理解してあげられたらええんやけど。とにかく今日は多少無理でも学校行った方がええと思うよ。そやないと後々どんな扱いを受けるか判らへんし、ヘタしたら留年──」

 むんのありがたい助言を胸に、萠黄は左右の裏返ったキャンパスを横断し、文芸学部の校舎に足を踏み入れた。
 廊下を歩いていると、あちこちで見覚えのある学生と遭遇したが、顔を背けてどうにかかわした。あなたの顔ヘンね、なんて言われたくない。もっとも、わたしの顔を記憶している人なんているのかな? 自意識過剰だったりして。
 教務課での手続きはわずか五分で終わり。萠黄は拍子抜けする思いがした。
 目的を達成したら、急に周囲を冷静に観察できるようになり、萠黄はこみ上げてくる心細さに押し潰されそうになって、あわてて教務課を離れた。
 無類の人見知りで引きこもりがちなわたし。独りで登校するのさえ億劫なのに、世界は根底から裏返ってしまった。世界に裏切られたとも思える。
 こんな状況でこれから毎日授業を受けろっていうの?
 キャンパスライフを楽しめっていうの?
 自動ドアをくぐり抜け、何かに誘われるように、萠黄は中庭に出ていった。そこはちょっとした公園のようになっていて、中央に噴水があり、周囲には植物が適度に配置されている、いわば憩いの場所だ。
 萠黄はベンチの一つにドスンと腰を落とした。
 今日の空は薄い雲がひろがっている。太陽の光もさほど強くない。
 そうだ、むんにメールしよう。ちゃんと手続き済ませたよーって。
 萠黄は小脇に抱えたままのバッグに手を入れた。
 あれ? どこ?
 バッグを膝の上に乗せ、今度は真剣に中をまさぐった。背中を冷や汗が流れる。
 げえっ、忘れたんや……。
 とことんツイてないなー。
 突然、孤独感がつのってきた。自分の周囲だけが太陽の光を遮られてグングン温度が下がっていくような、そんな得体の知れない感覚がひろがっていく。
 自作のソフトウェアとはいえ、いつの間にかモジは、ペット以上の存在になっていた。最近では予想もしない反応が返ってくることもあるが、どんな時でも相談相手になってくれるのは心強い。「PAIとばかり遊んで、人間の友達を作らない」と非難する大人たちもいるが、しょうがないじゃないか、友達にしたくなる人間なんて、むん以外にいないんだから……。
「こんにちは」
 そばで男の声がした。声は萠黄の頭にわだかまっていた思念を吹き飛ばすのに十分な威力を持っていた。
 まるで歌のように軽やかな声。萠黄はその声に聞き覚えがあった。
「光嶋(みつしま)萠黄さん、だよね」
 男は萠黄のフルネームを口にした。ベンチに座ったまま、おそるおそる首を巡らせる。そこには一人の男が立っており、萠黄に向かって涼やかな笑顔を向けていた。
 わたしはこの人を知っている。でもどうしてここにいるの? 
「揣摩(しま)太郎──さん」
 ぽっかり開いた萠黄の口が、相手の名前を呼んだ。
「やっぱり判っちゃったかぁ。横に掛けてもいい?」
 男は萠黄の返事も待たずに、しなやかな動きで隣りに腰をおろすと、優雅ともいえる仕草でその長い足を組んだ。
 揣摩太郎。ナマの彼を見るのはこれが初めてだ。だけど萠黄は毎日彼に会っている。自宅に貼ったポスターで。
 ジャニーズの人気五人組グループ《ダ・ヴィンチ》のリーダー。昨年はソロのシンガーソングライターとして全国ツアーを行った。また、初のアニメ原作として話題になったNHK大河ドラマ『陽だまりの樹』では主人公の武士・伊武谷万二郎を好演した。
 デビューしてまだ四年にも満たないが、輝かしい芸歴には枚挙にいとまがない。
 今や人気絶頂の彼。萠黄にとってはあこがれの人。
 その彼がなぜかいま隣にいる。予測不可能な事態に、萠黄はひたすら当惑し混乱し……頬を真っ赤に染めた。



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