PAIは高度な人間識別能力を持っている。単なる指紋センサーだけでなく、内蔵カメラに写った顔の造作の配置、声によって判別することができるのだ。
萠黄は今さらながら胸をなで下ろしていた。モジに別人だと拒否される可能性だってあったのだ。
《なあなあ、なんでホクロ付け替えたん?》
モジはますます身を乗り出してきた。もっとも携帯から一定の距離以上は出られないのだが。
「そんな無意味なこと、するわけないやろ」
《してるやんけ》
「し・て・な・い! ……明日になったら元あったところに戻ってるわ、きっと」
《ワケ判らんの〜》
「今ごっつーブルー入ってんねん。勘弁して」
萠黄はベッドによじ登ると、ごろんと横になった。
薬、飲まなきゃ。トイレにも行きたい。
そうは思うが身体がだんだん重くなってきた。頭の中にも灰色の霧が重苦しくのしかかってくる。昼間寝たのにもう眠い。長年ひどい不眠症に悩んでるのに昨夜から不思議とよく眠れる。左右反転の世界は想像以上に萠黄を疲れさせたのかもしれない。
《もえぎー、もう寝るんかー》
「まだまだ」
《ほなら、ボケ&ツッコミごっこ、やろー》
退屈しのぎに二人でよくやるお遊びだ。
「モジがボケやー」
《ほないくで。……携帯いうたら、床屋に行ったときバリカンなんかで髪の毛がはさまったりして》
「毛ェ痛い、ケーイタイかぁ? 単語と違うやん」
《カタいこと抜きや。毛ェ痛いっちゅーたら昔懐かしウルトラセブンの中で地球を守ってたのがウルトラ》
「けーびたい。警備隊かいな」
《その調子。警備隊っちゅーたら、髪の毛の生え際が富士山みたいになってて》
「……ふじびたい、富士額かいな。ちょっとツラいで」
《気にせんと。ほな次。ふじびたいっちゅーたら……》
「うなぎパイ!」
叫んだとたん、萠黄の開いた眼に、カーテンを開けたままの窓から朝の光が飛び込んできた。
机に置かれた携帯の画面では、背中を丸めたモジが、すやすや眠っている。ボケとツッコミを繰り返しながら、萠黄たちはいつの間にか眠りに落ちていたらしい。
それにしても、なにゆえ、うなぎパイなのか?
浜名湖へ遊びに行った夢を見ていたわけでもないから、おそらく遊びのつづきで出た言葉なんだろう。どういう流れでうなぎパイにたどり着いたのか気になる。
──何、のんきなことを!
萠黄は、部屋の中が昨日と変わらず左右反対なことに愕然とし、ひどく落胆した。
「なんでよもう。二日目に突入なんて──」
うんざりやわ。ひどすぎる!
枕許の目覚まし時計は、起床まであと三十分あることを示していた。今日大学へ行くならば、だが。
「そうだ。モジ! むんへのメール出してくれた?」
画面の中の尻尾がプラプラ動くと、眠気混じりの声が返ってきた。
《出してへんよ。出せぇて言われへんかったから》
「もう気が利かんねえ、今すぐ出して!」
《朝から人使い荒いのぉ──出したで》
母はすでに仕事に出かけていた。萠黄は顔を洗って、スープとトーストだけの朝食をお腹に入れた。もちろんほろ苦いコーヒーは欠かせない。ウィルも毛繕いに余念がない。いつもの朝の光景──違和感いっぱいの。
昨日のような頭痛がしないのはせめてもの救いだ。テレビをつけると、救急車の出動回数が昨日一日で普段の五十倍以上にのぼったことが報じられていた。司会者と評論家があれこれ言ってるが、結局のところ原因は判っていないらしい。
ネットの掲示板で見た「身体が崩れる」ような話は出てこない。なんでだろう。あれはたまたまそういう難病か奇病の患者さんだったんだろうか。
妙に気になる。萠黄は服を着替えながらパソコンを立ち上げ、問題の掲示板ページにアクセスしてみた。
──ない?
“該当するページは存在しません”という文字が画面に現れた。
結構、年季の入ったマジメなページだったのに、たった一日で消えるなんて。
まさか、どこかから圧力がかかったとか。
報道規制、言論封殺……。そんな言葉が頭に浮かんだが、もとより根拠はない。
ピンポーン。
チャイムの音に我に返った。むんだ。時計に目をやると──げっ、乗る電車の発車時間まであと五分!
「ごめーん、寝坊してもたわ」
謝る萠黄にむんは中へ入りもせず、「早よ早よ」と萠黄を急き立てた。
萠黄はパソコンを消すと、大慌てでバッグを抱えた。
玄関を出た二人は、エレベータを待つのももどかしく、階段を駆け下りていった。
「また今日も走ってばっかりかなぁ」
萠黄の部屋では、忘れられた携帯の中で、モジが安らかな寝息を立てていた。
携帯を置いていったことが、運命を分けることになろうとは、萠黄にとっては知る由もなかった。
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