窓の外は真っ暗になった。それでも萠黄は部屋の明かりを点けなかった。
つい五分前、ドアがノックされた。母が「ご飯食べないの?」とドア越しに訊ねてきたが「いらない」とだけ答えた。今のわたしはこの世界(と言っていい?)では左利きになってしまうのだ。箸を左手に持って食事なんかしたら、あの母のこと、騒々しく質問を浴びせてくるだろう。かといって左手で箸など握れないし。
暗い中、パソコンの画面だけが光っている。
幸いだったのは、パソコンの機種がマックだったことだ。マウスのボタンはウインドウズマシンとは違って一つしかない。だから左右を意識することもない。
マウスパッドの位置はすでにキーボードの右側に置き換えてある。萠黄はマウスに手を伸ばし、画面の中のブラウザのアイコンをクリックした。ブラウザが起動し、インターネットに接続した。
表示される文字は、すべて左右が反転している。あらためて深いため息が漏れる。
この状態は、いつまでつづくんだろう……。
一種の病気なんだろうか。何日かすれば元通りになるんだろうか。いや、わたしの身体だけは正しく見えてるんだから、眼や頭の病気なんてわけはない。じゃあ原因はナニ?
いくら考えても、堂々巡りするばかりだ。解決の糸口が見あたらない。
唯一の手がかりはハモリさんだ。どうしてハモリさんはテレビであんなことを言ったりしたんだろう。本当にハモリさんもわたしと同じだったんだろうか。
あのハモリさんですら取り乱したのだ。自分みたいな人間が耐えられなくても当然じゃないか。
……ピーポーピーポー。
また救急車のサイレンが聞こえてきた。あの音には心底気が滅入る。今日は何台が家の前を通り過ぎただろう。
もしや──運ばれてるのは、わたしやハモリさんみたいになった人?
萠黄は身体を椅子の背もたれから離すと、画面のニュースに目を走らせた。救急車の大量発生(違うか)なんて見出し、どこかに出てないだろうか。
目当てのニュースはすぐに見つかった。「本日の救急車の出動回数は記録的」とのこと。しかし萠黄の予想は裏切られ、どこにも左右が反転したなどという言葉は出ていなかった。
落胆しつつ、記事に添えられたリンクをたどっていくと『救急車同乗体験記』という掲示板に行き着いた。書き込みを目で追っていると、奇妙な記述を見つけた。
“搬送中の患者の脚が、みるみる崩れだした”。
……どういうこっちゃ? 足が崩れるやなんて。
さすがに逆文字のまま読むのに疲れたので、机の脇に立てかけてあるミラースタンドを持ち上げ、画面を映しこんで読んでみた。
投稿した大阪在住の男性は、今日の午前中、看護士として救急車に乗り込み、交通事故で左脚に大怪我を負った患者を病院まで運んだそうだ。その際、目の前で患者の左脚が、まるで固めた砂が風に飛び散るように、どんどん崩れていったという。
彼は最後に“ひょっとして新たな伝染病か?”と締めくくっていた。
萠黄はミラースタンドをベッドの上に放り出し、身体をパソコンから離した。足がぼろぼろ砂みたいになるなんて想像するだに恐ろしいが、どうやら救急車の異常発生(違うって)と左右反転現象の間には、何の関係もないみたいだ。チェッ。
萠黄はパソコンの電源をOFFにした。
部屋は真っ暗闇の中に沈んだ。何も見えない。
それでいいんだ。見たいものなんかない。こうやって暗くしていれば、もと通り“左は左、右は右”の世界にいるような気になれる。
もしわたしの異常が母に知れたら、心配性むき出しの母のこと、半狂乱になって救急車を呼ぶかもしれない。そうしたらわたしの身体も砂みたいに、さらさらと消えてしまうんだろうか……。
こわい、こわいよ、むん。
突然、暗闇の中に独りでいるのが怖くなり、萠黄は部屋の明かりをつけようと椅子から立ち上がった。しかし身体の覚えている部屋の感覚は、昨日までの間取りでしか通用しない。萠黄は右足の小指をイヤというほど机の足にぶつけてしまった。不快な痛みが全身を貫く。
「アタタ……」
血が出たかな。そう思いながら小指の先をさすっていると、机の下で小さく点灯している明かりに気づいた。携帯だ。充電器に載せたまま、すっかり忘れていた。
携帯の中には、もちろん萠黄のPAIがいる。
彼女は手を伸ばして携帯をつかみあげると、二つ折りの蓋を開いた。液晶画面はすぐに明るくなった。
そこには丸くてゴツゴツした岩のようなものが横たわっていた。
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