『奈良』行きの電車に飛び乗ったむんは、今日はよく走る日やわ〜と思いながら、手近な座席に腰を下ろした。
窓から差し込む陽光は、残暑の色を漂わせながらも、どことなく秋口を匂わせている。高い空に浮かぶ小さな雲は、どれも寂しげな夕暮れの朱に染まっていた。
萠黄の家に足しげく出入りするのは、家族のいない自分の家に帰りたくないからだろうか……。そうかもしれない。いや、それだけじゃないのは確かだけど。
車内に目をやる。夕方のラッシュ時にさしかかる直前といった時間帯。部活の帰りだろうか。中学生や高校生の姿が多い。彼らは全員うつむき加減で、手に持つ携帯に向かって話しかけている。
それは遠方にいる誰かと電話で話しているのではない。PAIと会話しているのだ。その証拠に、見ている液晶画面からときおり動物の尻尾みたいなものがひらひら飛び出てくる。
爆発的な勢いで世に普及した結果、2014年の現在、PAIは人々の生活の一部になった。
PAIはあくまで人工知能つまりプログラミングされたソフトウェアである。大雑把に言えばコンピュータである。動物やアニメキャラをインタフェースに用いたのは、あくまで親しみを感じさせるためだったはずだ。
ちょっと賢い情報携帯端末、人間に代わって情報を検索してくれたり、スケジュール管理してくれたりするのが当初の役割だった。
ところがPAIの知能が向上するにしたがって「人間の話し相手になってくれる」という部分がクローズアップされた。知能の度合いはよくいって人間の幼児程度だが、PAIの後ろにはネット接続した膨大な情報データベースがある。訊ねれば何でも答えてくれるし、ゲームの相手もしてくれる。ジョークですら理解する。
今やPAIは、子供たちにとっては絶対に裏切らない親友。寂しいOLにとってはやさしい言葉で癒してくれる相手。サラリーマンにとっては素直に愚痴を聞いてくれる友人。老人にとっては疎遠になった子や孫の代理のような存在。
おかげで人間同士のコミュニケーションがますますおろそかになる、と嘆く一部の大人たちをよそに、PAIのユーザーは激増をつづけ、ついに一人一台の時代に突入した感が強い。
むんは自分の携帯を取り出すと、液晶画面を開いた。ぼわんと煙が立ちのぼり、二匹のリスがふわりと空中に舞い上がった。
《むんちゃん、これからどこに行くの?》ともん。
《むんちゃんはバイトに行くんだよ》と古株みん。
《へえ、どんなバイト?》
《コンビニの店員さんさ》
ふと目を上げると、斜め向こうに座っている中学生の男の子が、驚きの目をむんのPAIに向けている。当然だろう。二匹のPAIが一台の携帯で会話するなんて、他の携帯にはまだそんな機能はない。PAIは持ち主の声にしか反応しないので、盗難の心配はまずないが、ジロジロ見られるのはいい気分ではない。
「閉じるわよ、また後でね」とむん。
《了解、むんちゃん》とおどけて敬礼するみん。
《右に同じ》とこちらは尻尾で敬礼するもん。
「うん。それからね、わたしの名前に“ちゃん”は付けなくていいよ」
《はーい、むん》
《右に同じぃ》
同時刻。東京・新宿。
二人の男が路地裏の暗がりに身を潜めていた。
ひとりは怪我をしているのか、奥まったあたりで身を横たえている。もう一人は油断なく表通りを見張っている。
「おい、具合はどうだ?」
見張りの男が小声で話しかけた。
「……何度も聞くな。大したことはない」
応えた男の声は、せいいっぱい虚勢を張っているが、声に力がこもっていない。
「クソッ、俺たちいったいどうなるんだ! アルタに忍び込んでハモリを連れ出す、それだけだったのに」
「……まったくだ」
「『アンタの身に危険が迫っている』と話しかけても、ハモリはほとんど反応を示さなかった」
「……申し訳ない申し訳ないって、謝り続けてたな……今日の放送で大きな失敗をやらかしたらしい」
「テレビを観てなかったから判らんが、俺たちがいくら脅そうが頼もうが、立ち上がろうとさえしなかった」
「……しかし、後からやってきた連中、アイツら何者だったんだ? 軍隊のように統率されていて、誰ひとり言葉を発しなかった」
「俺たちは、とっさに隠れるしかしょうがなかった。物陰から見ていたが、ヤツら、束になってハモリを取り囲んでたぞ」
「……さっき表通りで誰かが、ハモリが自殺したって叫んでたな。そんなはずはない。彼は──」
「──殺された」
「……自殺に見せかけてな」
「有名タレントの命を奪って、どんな利益がある?」
「……知らん」
「しかも逃げようとした俺たちを躊躇せず撃ってきた連中の正体は?」
「……テロリスト集団ってな雰囲気だったな」
見張りの男は深いため息をついた。
「俺たちはこれからどうすればいいんだろう」
「……連絡を待つしかない」
「そうだな」
見張りの男の携帯が鳴った。すかさずポケットから携帯を出し、受話口に耳を押し当てる。
「──そうか」
通話は短かった。
「……何て言ってた?」
怪我をしている男の質問に見張り男は応えず、すっくと立ち上がると、そのまま表通り目指して歩き始めた。
「……お、おい」
見張り男と入れ替わりに、別の男が路地の入口に現れた。ふたりは互いに言葉を交わすことなくすれ違い、見張り男はそのまま表通りに出て、姿を消した。
「……オマエは?」
第三の男の手には銃が握られていた。怪我をした男は息を飲んだが、次のひと言を発する前に、額の中央を撃ち抜かれていた。
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