Jamais Vu
-12-

敵と味方 I
(1)

 萠黄は自分のあげた声に驚いて目を覚ました。
 身体がじっとりと汗ばんでいる。タオルケットに爪を立てたままの指からも、まだ力が抜けていない。
 誰かに追いかけられていた。真っ暗な一本道をずっと。そんな夢を見ていたようだ。幸いにも、目覚めと共に悪夢はどこかへ退散したようだ。
「起きた?」
 むんが萠黄の顔をのぞき込んできた。
 萠黄は自分の部屋にいた。左右反対の部屋。これだけは夢ではなく現実だった。
 帰る電車に乗り込んだところまでは思えているが、そのまま寝込んでしまったらしい。気を失ったのかもしれない。
「ごめん。また運んでくれたんやね」──しかもずっと看ていてくれて。
「あはは、少しは元気になったようね」
 むんとは同い年齢だ。なのに彼女の前に出るといつも妹役を演じてしまう。対等に話しているつもりでも、つい甘えてしまう自分がいる。実際むんに助けられたことは数限りなくあるのだが。
「写真、見てたんやね」
「ああ……うん」
 むんが左手に持っていた写真立てを、所在なげに揺らした。勉強机に飾ってあったもので、昨年の夏、萠黄とむんが、むんの弟にせがまれて、初めて行ったUSJで記念撮影したものだ。
「昇ちゃん、はしゃいでたよね、あの日」
 むんがうなずき返す。彼女の弟である昇太郎のことはやはり幼い頃から知っているので、萠黄にとっても本当の弟のような気がしていた。名前も姉がむん(ムーン)で弟が昇太郎だから「月が昇る」という流れなんだと、彼女らの父・太一が話してくれたことがある。
「弟のこと、覚えててくれてありがとう」
 ぽつりとこぼれたむんの言葉に、北海道が消えたと聞かされたときの彼女の姿を思い出さずにはいられなかった。
 むんはひたすら怒っていた。何か見えない相手に対して憤り続けていた。下北半島の突端に集まり、何もなくなった北の海へ向かって嘆き悲しむ人たちのなかで、そんなむんの姿は異彩を放っていたという。背が高くてスタイルのいい美人ということもあり、各局のニュースはこぞってむんの言動を取り上げた。むんは自分の見栄えがいいことなどに頓着しない性格だし、カメラに語った言葉も理路整然としていて的を射たことが多く、視聴者から多くの支持を得られたらしい。
 むんをタレントとしてデビューさせようと目論んだ芸能プロダクションもあったと聞く。彼女はそんなものはてんで歯牙にもかけず、耳すら貸さなかった。その代わり、今日行くつもりだった遺族の会のような場所には、乞われると無理にでも時間を作って出かけていった。
 萠黄はむんが泣くところを一度も見たことがない。北海道のことは彼女に計り知れないショックを与えたはずだ。これまではむんに庇(かば)ってもらうばかりだったけど、今こそむんを庇ってあげよう、力づけてあげよう、そう思っていたのに、むんはくじけるといった素振りを人前ではいっさい見せなかった。
 もちろんむんが血も涙もない人間だというのではない。人一倍感受性豊かであることは、誰よりも萠黄が一番よく知っている。だからこそむんは魅力的なのだ。きっと彼女の見せる怒りは、悲しみの裏返しなのだろう。

 カチャリ。玄関扉の開く音がした。母のご帰宅だ。
(裏返った)時計を見るともう午後5時。かなり眠っていたらしい。壁向こうの廊下から声がする。
「あらあら靴がある。萠黄ー早かったのね、むんもいるの?」
 部屋の扉が開き、母親の顔がのぞき込んだ。
「あらぁ、また寝てるの? まさか今日は学校へ行かなかったんじゃないでしょうね?」
「行ったよ。帰ってきたら疲れが出たんで横になってるだけ」
「ホンットにこの子は弱虫ねー。むんちゃん、こんばんは。またお世話かけちゃったみたいでごめんね。シュークリーム買ってきたんだけど、いっしょに食べない?」
「はい、いただきます」
 むんはにこやかに返事した。萠黄は気恥ずかしくなってタオルケットの下に潜り込んだ。
 萠黄は母親がどうも苦手だ。いつも思いつくまま気分のままにしゃべり散らす。その内容がまた短絡的で無遠慮で無分別でぶしつけときているから、できれば人前にさらしたくないとまで思っている。
 そんな母に耐えられなくなったのか、父が家を出ていったのが今から3年前。お父さん子だった自分の神経は引き裂かれ、母の陽気な特質は歯止めを失った。
 父は置き土産にこのマンションを置いていった。母は生活費を稼ぎにパートに出、自分は父から振り込まれる養育費で大学に進むことができた。
「二人とも、ニュース聞いたぁ?」
 キッチンでお茶の準備を始めた母が、大きな声で話しかけてきた。お隣さんにまで聞こえそうだ。
「何のニュースですかぁ?」とむんが問い返す。
「あら、まだ知らないのね。わたしびっくりしちゃったわよ。まさかーって職場でも誰も本当だとは思わなかったし、番組のおフザケ企画に決まってるわよーなんて口では言いながら、もし事実だったら明日から──」
「だから何があったの?」
 イラついた萠黄が、布団の中から先を促した。
「何がって、ハモリさんよ」
「ハモリ? あの『ハモっていいとも』の?」
「ついさっき自殺したんですって」
「じ……」
 萠黄はむんと顔を見合わせた。


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