Jamais Vu
-11-

異常な朝
(10)

 内閣総理大臣・山寺鋭一は、祈るような気持ちを胸に、人気(ひとけ)のない廊下を急いでいた。
 まさかこれほど早く事態が悪化するとは予想していなかった。できれば誤報であってほしいのだが。
《北海道消失事件対策本部・別室》
 目指す部屋の入口にはそう書かれてあった。もっとも地上にある本部は建前的なもので、こちらが本当の本部なのだ。
 自動ドアをくぐると、いきなり騒音の洪水にさらされた。部屋の中にはコンピュータの端末がずらりと並び、何十人もの人間が刻々と集まってくる情報を収集、整理し、あるいは検証していた。別の区画の電話ブースでは、女性たちが次々に寄せられる報告の応対に大わらわだった。
 一週間前に訪れたときは、あれほど静かだったのに。やはり事態は最悪の結果を招いてしまったのか?
「総理、こちらです」
 大声で彼を出迎えたのは、内閣情報調査室長の江守だ。すぐ脇には苦虫を噛みつぶしたような顔の笹倉防衛庁長官もいる。
「起こってしまったのか?」
 やはり開口一番、それを確認せずにはいられない。
「はい、残念ながら。今朝の午前5時28分でした」
「そうか──」
 山寺は落胆の色を隠せないまま、二人の向かいの一人掛けソファに腰を降ろした。
「ということは、この私の身体も、本当は左と右が逆になってしまったのか?」
「はい──誠に遺憾ながら」
「くそっ!」
 山寺は目の前の机をドンと叩いたが、
「──すまない。君たちだって同じなのにな」
「いえ……」
 笹倉が無念そうに、自分の両手を見つめている。
「総理、とりあえず現状をまとめておきました。目を通していただけますか」
 江守が差し出したのはレポート用紙たった一枚の報告書だった。そこには非常事態に陥ったことを証明する出来事が箇条書きにまとめられていた。
 読み終えた山寺は、深いため息をついた。顔を近づけた江守がさらにたたみかける。
「特にそこの一点目に関しまして、すでに各地から数多くの報告が入っております。新種の伝染病ではないかと疑念を抱いている病院もあると」
 山寺はうなずいた。それはあらかじめ想定された範囲内の反応ではある。だがこの先、ますます混乱がひどくなれば──。
 そんな思いを振り払うように、山寺はことさら毅然とした顔つきで腰を上げた。
「ただちにB作戦を発動する! 江守君、準備はできているな?」
「はい。すでに部隊は全員、集結しております」
「よろしい」
 続いて山寺は笹倉を振り返ったが、思わず言葉を詰まらせた。笹倉はあられもなく泣きじゃくっていたのだ。
「防衛庁長官! 君がそんな体たらくでは困るな」
 山寺は三十年来の友人であるこの小心者に、苦笑を混じえた声を投げかけた。
「す……すみません、総理」
「君の嘆きは判らないではない。だが今こそ文字どおり、国民のために一身を投げ出す気概を見せてくれねば」
 笹倉は総理の言葉に何度もうなずいたが、しばらくは立ち上がれそうにもない。
 山寺は、壁の大型液晶スクリーンを見上げた。そこには北海道を除く日本地図が表示されていた。色分けされた点が各種情報の出所を表している。
 すでに事態は、北海道消滅どころか、日本の存亡に関わるところまで来てしまった。しかも、仮にもしB作戦が成功したとしても、われわれは歴史に名をとどめることはない。われわれに未来は存在しないのだ。
 笹倉の醜態は彼だけのものではないだろう。おそらく大多数の日本人が同じ反応を示すに違いない。果たしてB作戦がうまく機能するのかどうか。
「総理!」
 一人の若者が端末の間を縫って駆け寄ってきた。
「総理、いますぐテレビをご覧ください!」
「テレビ? ニュースかね」
「いえ……『ハモっていいとも』という番組です」
 地図の横の百インチ液晶テレビのスイッチが入った。にわかに部屋全体が静かになり、誰もが画面に食い入った。
『みなさん! 私のこの手は右手ですか? 左手ですか?』
 国民的タレント、ハモリの悲痛な声が、部屋全体に響き渡った。そして画面は混乱するスタジオを隠すように《しばらくお待ちください》の静止画に切り替わった。
「盛大にやってくれましたね。これじゃいたずらに混乱を煽るだけだ……」
 江守がうめくように言ったが、山寺は反論した。
「いや、これは幸先がいいと言うべきだ。わずか六時間で一人目の“リアル”が発見できたんだからな。
 ──いますぐ、新宿に部隊を送り込め!」


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