Jamais Vu
-10-

異常な朝
(9)

 午前11時55分。
 東京、新宿アルタ。
 今日も7階スタジオアルタには200人以上の観客が詰めかけ、本番が始まるのを今か今かと待ちかまえていた。
『ハモっていいとも』。
 全国ネットで生放送されるお昼の人気バラエティ番組である。
 舞台上手のすぐ裏では、ADの村上健太が本番前のあわただしい空気の中にいた。フジテレビの看板番組。そのADをつとめて一年になる。「現場に慣れても、仕事に慣れるな」という先輩のありがたい言葉を噛みしめつつ、日々新たな気持ちで仕事に臨んでいる。それでも本番直前のこの時間、いつもの位置にいつものスタッフや出演者がスタンバイする姿を見ると、緊張の中にも安心した気分になれる。
 しかし今日はどこか勝手が違った。
 原因は判っている。
 村上は不安げな視線を前方に立つ男の背中に送った。
 この番組の司会を長年つとめてきた通称ハモリこと、森葉一芳氏。いつもは本番前でも周囲の緊張を和らげるために軽口を叩く彼が、今日に限って物静かだ。楽屋入りしてからずっと人前に出てこなかったのも彼らしくない。番組はいつも彼の美声がコーラス隊とハモるところからスタートする。声の調子でも悪いのだろうか?
「ハモさん、よろしいですか?」
 村上はたまらず声をかけた。
「ん? ああ大丈夫……」
 抑揚のない返事が返ってきた。まるで心ここにあらずといったような。
《30秒前です》
 インカムの声に、村上はいつになく心臓が高鳴るのを覚えた。こうなったら調子が悪かろうと何だろうと、ハモリにすべてを託すしかない。芸歴の長い彼は、これまで生の現場でどんな状況に遭遇しても、そつなく見事に切り抜けてきた。自己管理においても徹底している彼のこと。大丈夫だと言えば、まず間違いはないだろう。よほどのことがない限り。
《3……2……1……》
 ジャーン。番組が始まった。テーマソングが流れ出す。
 ハモリの足が動いた。低い階段を昇り、ステージに設営されたゲートをくぐり抜けて観客の前へ、そしてテレビの前へ姿を現した。
 まばたきも忘れて村上は、モニターに映るハモリの姿を凝視し続けた。左手にマイクを持ったハモリの上半身が少しずつアップになっていく。
 はて、ハモさんは右利きだったはずだが──?
 トレードマークの黒のサングラスの下の表情は読みとることができない。それでも頬が妙にひきつっているように見えるのは、モニターの調子が悪いせいか?
 テーマソングが流れ続けている。しかしハモリは一向に口を開こうとしない。やや前方下を見つめたまま舞台の中央で棒立ちになっている。
 リズムに合わせて手を叩いていた観客たちも様子が違うことに気づいたようだ。手拍子が弱まり、ざわざわという声がひろがり始めた。
「どうしたのー」
「ハモさーん」
 不安そうな掛け声にも、ハモリは微動だにしない。
 村上の背後も急に騒々しくなった。数人が「放送事故か?」と叫びながら駆けていく。自分もADとして動かねばと思うが、魅入られたようにモニターから目が離せない。
 こんな事態は初めてだ。村上のこめかみを汗がしたたり落ちる。にぎやかなテーマソングもいつか消えている。
 モニターに、共演のタレントたちがぞろぞろとステージに出てくるのが映った。スタッフよりもタレントたちに助け船を出させようと上が判断したのかもしれない。
「ハモさん、どないしたん?」
 一人がハモリの肩に手を置いた。するとそれが合図になったかのように、ハモリはぐいとあごを上げ、正面のカメラを見据えた。そしてマイクを口の前に持ってくると、静かな口調で話し始めた。
「──みなさん、聞いてください。私が今朝起きると、目の前の世界がひっくり返っていました──まるで鏡の中のように、すべてが左右逆になっていたのです。家の中も、街の中も、本に書かれている文字も、何もかもがです。
 ──私の頭はおかしくなったのでしょうか。昨夜眠っている間に右脳と左脳が入れ替わったのでしょうか。それとも視神経がこんがらがってしまったのか……!」
 ハモリは言葉を切った。
 あたりは水を打ったようにシーンとしている。未だかつてこの番組がこれほど静かだったことがあるだろうか。
 スタッフの全員が、200人あまりの観客たちが、しわぶき一つ上げず、ただただハモリの言葉に聞き入っていた。いや視聴者を含めれば数十万人になる。
 ハモリは再び口を開いた。その声は明らかに強ばっていた。
「──ところが、私は気がついたのです。私は右利きです。いつもマイクを右手に持ちます……みなさん! 私のこの手は右手ですか? 左手ですか?」
 ハモリはすぐそばにいた芸人の一人に向き直り、マイクを握った手を付きだした。芸人は、
「へへへ、ハモさん、これギャグ? なんでわざわざ左手で持ってるん──」
 芸人の言葉が終わらないうちに、彼の右頬にハモリのマイクを握った拳が飛んできた。芸人は悲鳴を上げて床に倒れると、モニターの外に切れていった。
 とたんにスタジオが嵐の渦に巻き込まれた。ハモリは半狂乱のまま、それでも何事かを訴えようとしているが、すでにマイクを放り出してしまったので音声が拾えない。周囲は彼を舞台裏に戻そうとするタレントやスタッフらでごった返す状態となった。観客のある者たちはヤジや怒号を投げつけ、ある者たちは雰囲気に恐れをなして、出口に殺到している。
 ようやく画面に“しばらくお待ちください”が出た。
 この文字が逆? どういうことだ?
 村上にはハモリの真意も意図も理解できなかった。ただ、この長寿番組は今日をもって終了するかもしれないと思い続けていた。


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