Jamais Vu
-9-

異常な朝
(8)

 むんは、ドアを跨(また)いだところでハッと足を止めた。振り返ると、萠黄のバッグが座席に放り出されたままだ。急いでとって返し、バッグをつかみ上げたとき、発車のベルが鳴り響いた。ドアに向かって駆け寄ったが、間に合わないと踏んだ瞬間、彼女は手近な窓ガラスをサッと開け、見事な跳躍力でホームに着地した。高校時代、陸上部で鍛えた足腰はまだまだ現役だ。
 萠黄は──?
 彼女の姿は十メートルほど向こうにあった。弱々しい背中が、今まさにホームの上に倒れようとしていた。
「危ない!」
 自分と萠黄のバッグを肩にかけたまま駆け寄ったむんは、間一髪、萠黄の体を抱きとめた。ふらふらと揺れる萠黄の顔はすっかり血の気が失せ、目を強く閉じたまま、うわごとのように「逆……逆……」とつぶやいている。
 むんは舌打ちすると自分を責めた。自分の不用意な言葉が萠黄を追いつめたんじゃないだろうか。いったい何年彼女と付き合ってるのよ!
 いや、思い煩うのは後回し。クーラーの効いていた車内と違って、外はまだ残暑がきつい。どこか涼しいところで萠黄を休ませないと。 
 少し離れたところにガラスで仕切られた待合室があった。駅員の手を借りたかったが姿はない。むんは決心すると萠黄の頸(くび)と両膝に腕を通して、気合一発、よいしょとばかりに持ち上げた。
「お、重い……足、太ぉなりそ……」
 身体じゅうからぶわっと汗が噴き出した。一歩二歩と歩き出す。離れたところから若者たちがニヤニヤと好奇な視線を投げよこしてくる。フン、誰がおまえらの助けなんか借りるもんか!

 むんはふと、デジャ・ヴュのような感覚に襲われた。
 ずっと以前にも似たようなことがあった。小学生の頃、やはりこんなふうに萠黄を抱き上げたことがあるのだ。その時、この子は学校の体育館の重い扉に腕をはさまれ、痛みのあまり卒倒した。たまたま近くに先生はおらず、級友たちは驚いて遠巻きに見つめるばかり。むんは彼らを押しのけ、萠黄を抱き上げると急いで保健室へと駆け込んだ。
 元々、萠黄とは家が近所で、物心ついた頃から顔見知りだったが、親密になったのはそれがきっかけだった。

 ようやく待合室にたどりつき、むんは回想を中断した。萠黄の頭を柱にぶつけないよう、注意しながら自動ドアをくぐると、ひんやりした空気がふたりを迎えた。
 プラスチック製のイスに萠黄を座らせ、むんは自分も横に並んで腰をおろした。うーんと声を出しながら両腕を回転させ、肩の疲れをほぐす。
 他に誰もいない静かな待合室。ガラスの向こうを快速電車が通り過ぎていく。
「……むん……ごめん」
 か細い声が流れてきた。むんは体を傾けて萠黄の顔をのぞきこんだ。その顔色は相変わらず青白く、眉根に寄せたしわが、めまいと戦っている様子を如実に物語っていた。
「学校、無理そうやね? 帰ろうか」
 むんがたずねると、萠黄はわずかにうなずいて見せ、
「──もう五分だけ、このままいさせて」
 いいよ、とむんは応えた。
 彼女は静かにイスから立ち上がると、萠黄のそばを離れ、ポケットから携帯電話を取り出した。そしてボタンに触れて人工知能──いわゆる携帯AI──を起動すると、小声で命令した。
「遺族会の責任者さんにメール送って。今日の結団式は急用でパスするって。ていねいな言葉でね」
 液晶画面には愛らしいリスの動画が浮かんでいた。リスは“オッケー”と高い声で返事すると、尻尾を丸めて宙返りを始めた。
 一回、二回、そして三回転したところで“送ったよ”とリスはウインクした。むんはうなずいて携帯をしまった。
 それでも参加を促すメールが来るだろうな。それを予期して、むんは携帯の電源をオフにした。今は萠黄の心配に集中したい。彼女は親友のそばに戻った。
 いったいこの子の身に何が起きたのか?
 世界のすべてがひっくり返った。そう萠黄は言った。鏡に映したように左右が逆転したという、聞くからに奇妙奇天烈な話。さすがにすんなりと信じることはできなかった。彼女の持病ともいえる自律神経の不調が起こした一時的な混乱だと思っていた。ついさっきまでは。
 萠黄の右手の甲の傷に目がいくまでは。
 その傷こそ、むんと萠黄の友情のあかしでもある。
 あの日、傷口からだらだらと血を流していた萠黄を保健室に担ぎ込んだのは、他の誰でもない、むん自身だ。今でもその時のことは鮮明に記憶している。だからはっきりと断言できるのだ。彼女の傷口は右手にあったと。
 なのに──なのにどうしたわけか、今、萠黄の傷痕は、左手の甲にある。右手の同じ部分は傷痕一つない。
 それに気づいたとき、むんの背中に戦慄のようなものが走った。おかしくなったのは自分の方ではないかと思ったほどだ。
 なんだかイヤな予感がする。理由はないけど、このままじゃ済まないような……。
 サイレンの音にむんは我に返った。駅の外で「道を空けてください」とスピーカーの声が連呼している。どうやら渋滞に巻き込まれた救急車がいるらしい。気の毒に。
 同じく気の毒な萠黄が身じろぎした。むんが顔を近づけると、萠黄の目がうっすらと開いた。眉間に刻まれた縦縞はそのままだ。
「楽になった?」
「あんまし……でも立てると思う」
「そっか」
 むんはしばらく親友の顔色をうかがっていたが、わざとらしく背筋を伸ばすと、
「ほなレッツ・ゴー・ホームや!」
と元気な声を張り上げた。萠黄の顔がわずかにほころんだ。


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