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-8- 異常な朝 (7) |
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「………」 「やっぱり逆になってる?」 萠黄は膝に目を落としながら、うなずいた。 「むんの目尻のホクロ、左目やったよね」 「右目のほうについてるっていうの?」 またうなずく。それだけではない。萠黄の目はさっきからむんの顔にどことなく違和感を感じていたのだった。その理由がいまようやく判った。 人間の顔が左右対称じゃないのは、なにかの本で読んで知っていた。右半分は親しみやすい顔で、左半分は知的でクールな顔だとも。 いま隣にいるむんの顔は、萠黄の知っているのとは微妙に異なっていた。確かめるため、彼女はバッグから小さな手鏡を取り出し、おずおずと親友を映してみた。 ──やっぱり。 鏡の中のむんこそ、萠黄の知る親友の顔だった。 「むん。わたしの話、どう思った?」 「そりゃあ、びっくりしたよ。……まさか学校に行きたくなくて仮病を使ってるようにも見えへんし」 「当たり前ですー」 萠黄は恨めしげに親友をにらんだ。 「としたら原因は何やろ。心当たりはないの?」 問い返されて萠黄は、苦悩を帯びた目を窓外にやった。そこには大阪平野を一望する大パノラマが展開していた。 はるか大阪湾を背にひろがる大阪の街。それがすべて逆。これが“どっきり”だったら何兆、いや何十兆円ものお金が必要だ。 「頭の中が腸捻転、起こしたとか」と萠黄。 「なんやて?」とむん。 「ごめん……もしかしたら、目で見たものを脳に伝える神経のどこかがひっくり返ったか、こんがらがったか、したんやないかと思うんよ」 「はーん」 「……ずっと飲んでる薬の副作用かもしれんし」 「でもさー、歩いたり、ものに触ったりするのも逆やて感じるんやろ?」 「うん」 「おかしいやん。どうにかなったんが目の神経だけやったら、触った指先の感覚と目で見たのとが噛み合わへんのと違う?」 「ああそうか。てことは……」 「萠黄の身体の感覚全部が、いっせいにひっくり返ったことになる……のかな?」 その時、むんの両眼がハッと凍り付いた。気づかず萠黄は非難の気持ちを表明した。 「そんな、そんな怖いこと言わんといてよ。だってわたし、普通にしてたら耳から入ってくるのも、指先で感じるのも、いつもと変われへんねんから!」 そして、自分の感覚を確かめるように、頬を両手でピタピタと叩きながら、 「左手で触ったものは左やし、右かて!」 「………」むんは無言を続けている。 「それにほら、文字かて書こうと思ったら──」 萠黄の言葉がそこで途切れた。 右手の指先は、左の手のひらに字を書こうとしたまま硬直している。 その右手の甲には小さな古傷がある。幼い頃、学校の重い扉ではさんだ時に負ったものだ。 その傷が記憶のまんま、左手ではなく右手にある。 まさにこの瞬間、彼女は真実の一端にたどり着いた。 そして、事の重要性は激しい嘔吐感を伴って、萠黄の脳天に雷を落とした。 電車はちょうど駅に到着したところだった。萠黄は両手で口を押さえると、開いた扉から飛び出していった。 「待って!」 むんが後を追った。 |
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