Jamais Vu
-7-

異常な朝
(6)

 萠黄の母親との密約を果たすべく、むんは萠黄の手首をしっかりとつかんで、時間通りに彼女を家から連れ出した。
 駅に着くまで、萠黄はほとんど目を閉じたままだった。異様な光景を見ないように。耳に入ってくる街の音だけは記憶にあるのと同じだ──方向さえ気にしなければ。
 救急車も、しっかりドップラー効果にならって、音程を変えながら通り過ぎていった。
「あたっ!」
 引きずられてよたよた歩く萠黄は、ガードレールの出っ張りに膝をイヤというほど打ち当て、悲鳴をあげた。
「ほら、きりきり歩く」
「もう、まるで罪人扱いじゃない」
「似たようなもんよ」

 最寄りの近鉄奈良線富雄駅は、歩いてわずか二分の距離にある。通学の面でも、よそに遊びに出かけるにも極めて便利な地の利の恩恵を、萠黄はここ数ヶ月、全く受けておらず、そのせいで自分の身体にカビが生えたような気がしていた。反対にむんは本格的に働き始めたこともあって、ますます大人びて見える。
「わたしは切符買うけど、萠黄は定期持ってたよね」
「ううん、半年経ったから切れてる」
「じゃあ今日買う?」
「どうしよう。買ったのに学校行かなかったらもったいないしなあ」
「ウダウダ言わずに買うべし!」
 押し切られて購入用紙を手にしたが、萠黄はそこでまた困惑した。用紙は備え付けの鉛筆で購入者の名前や住所を記入することになっている。裏返しに印刷された用紙には当然、裏返しに名前を書かねばならない。
「ごめん、今日は切符にしとくわ」
「うーむ」
 さも難儀な奴だという顔をしたが、それ以上は何も言わず、自ら萠黄の切符を買ってくれた。
 プラットフォームに駆け上がると、すでに電車は到着していた。駆け込むなり扉は閉まり、萠黄の知るのとは逆の方向へと発車した。
 すでにラッシュアワーは過ぎていたので乗客はまばらだ。これなら話しやすい。萠黄はホッとした。
「むん、約束して。ホンマに笑わへんって」
「おもろい話やったら笑うよ」
「わたしにはおもろくない。……気持ち悪くて、途方に暮れてんねんから」
「判った判った。さあ話してごらんなさい」
 萠黄は意を決して、今朝目覚めてから自分の身に起きたことを、ゆっくりと話し始めた。
 自分の周囲の世界が突然左右反対になってしまったこと。部屋の間取りも、持ち物も、そこに書かれている文字すらも。最初は誰かのいたずらかと憤ったけれど、猫のウィルまで逆になっているに及んで、原因は自分の頭にあるんじゃないかと疑い始め、錯乱の一歩手前まで追いつめられたこと……。
「そんな窮地にいる時、わたしがやってきた。だからあんなに喜んでくれたってわけか」
「うん」
「右手を挙げろと言うたり、名前を書かせたりしたのも、わたしが逆かどうか確認するため?」
「うん」
 揺れる電車の床を見つめたまま、萠黄は消え入りそうな声で答えた。
「ウィルちゃんの顔が左右反対やって言うたね。わたしの顔もそうかな?」
 言われて萠黄はぎくりとした。そして、あらためて、むんの顔を正面から見据えた。


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