Jamais Vu
-6-

異常な朝
(5)

 事件の翌七月、北海道があった地域(海域)に入ることが全面禁止された。危険が去ったとは言えないとして、各種マスコミをはじめ、献花を要望する遺族の現地訪問すら拒絶された。
 マスコミは連日、そんな政府の横暴を叩き、隣国が使用した新型爆弾が原因ではないか、いや巨大な隕石が落下したのだと、勝手な憶測を並べ立てた。
 政府も一応は「局所的な大地震によるもの」と公式見解は述べたものの、詳細には全く触れず、現在は近隣諸国が持ち出してきた「新たな領海を決め直すべき」という問題に頭を悩ませているらしい。
 その辺になると、萠黄にはよく判らない話になってくる。しかし彼女にとっての最大の問題は、親友であるむんが家族を亡くし、入学して半年にしかならない大学を休学したということだ。
 むんは当初、学業を続けるのは無理と判断し、退学を申し出たが、大学側はむんの立場に深く同情し、四年間の学費を免除すると太っ腹なところを見せた。むんに言わせれば「学内の被害者がわたし一人だったからよ」とのことだが、彼女はありがたくその申し出を受けた。その辺はさすが、ちゃっかり・むんだ。
 しかし両親の生命保険がおりないとなると、生活費を稼ぐ必要があった。彼女は一年間の休学を願い出て、いまは毎日、仕事に精を出している。
 その割を食ったのが──萠黄である。小中高とむんのそばを離れたことのない萠黄にとって、まさに由々しき事態となった。
 受験する大学を選ぶ際も、ただ、むんが受けるというだけでK大学の芸術学部を受けたようなものだ。ものごころついた頃から引っ込み思案で人見知りする萠黄にとって、むんなしに登校したり、授業を受けたりするなど想像できなかった。
 案の定、七月を境に、萠黄はほとんど授業に出席しなくなった。悪くすると家どころか自分の部屋からも外に出ない日が増えた。このことにはむんも責任を感じているらしく、登校を促しに訪問してくれたりしたが、完全な徒労に終わった。萠黄は萠黄で、このままじゃいけない、家族を亡くしたむんに負担をかけてはまずいと思うものの、どうにもならない自分がいて、ますます自律神経のコントロールを失っていくという悪循環に陥っていた。

「で、聞いてほしい話って?」
 むんの前にジュースの入ったコップを置くと、萠黄は並ぶように腰掛けた。
「えっとね……笑わんと聞いてくれる?」
「内容によりますなー」
「ううん……それじゃ、右手を挙げてみて」
「ん? ──こう?」
 素直に挙げられた手に、萠黄はがっかりした。むんの挙げたのは左手だった。
「それじゃあ、ここにむんのフルネームを書いてみて」
 親友はわずかに首を傾げたが、何も言わずペンを取り、差し出されたノートへさらりと自分の名を書きつけた。
 書かれた文字は四つとも、見事に左右が逆転していた。
 しかも右利きのむんは左手で書いていた。
 萠黄は深いため息をついた。彼女の悩みを話したところで、この親友は理解してくれるかどうか。
 むんも萠黄の様子にただならないものを感じたようだが、ふと見上げた壁掛け時計に、あっと声を漏らした。
「アカン! 萠黄、遅刻すんで。今日は後期授業のオリエンテーションがあるんでしょ?」
「そうやけど」
「やけどやないよ。ちゃんと出席せんと」
「わたしも休学しようかな」
「アホなこと言わんといて。さあ着替えて着替えて。話の続きは、道々聞いてあげるから」
 そう言われてはしょうがない。萠黄はあきらめて自室に戻ると、パジャマを脱いで外出着に着替えた。
 通学用のトートバッグの中を確認する。逆さまの筆入れ、逆さまの財布、逆さまの定期入れ、逆さまの携帯。萠黄はますます気が重くなった。


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