Jamais Vu
-5-

異常な朝
(4)

 インターホンの液晶画面が明るくなると、若い女性の顔が大写しになり、
「もっえーぎちゃーん、あ・そ・ぼ」
と調子っぱずれな声で呼びかけてきた。
「むん!」
 相手の正体を知って、萠黄は号泣しそうになった。訪問者は萠黄の友人、いや無二の親友だったのだ。
 萠黄は画面脇のボタンを押して、階下エントランスのオートロックを開錠した。
 地獄に仏。まさに彼女の心境はこの一言に尽きた。
 萠黄はあたふたと玄関にたどり着くと、扉の鍵を逆回しに開くのももどかしく、表の共用廊下に飛び出した。
 エレベータの音が聞こえ、やがて親友がその姿を廊下に現した。
「むーん!」
 萠黄は大きな声を上げて駆け寄り、親友の首に抱きついた。
「昨日会(お)うたばっかりやのに、えらい熱烈歓迎やん。でも萠黄ぃ、あんたなんでパジャマのままなん? もう出かける時間でしょうが」
 相手の困惑をよそに、萠黄はしばらく腕を解かなかった。
 舞風(まいかぜ)むん。
 彼女は、小中高校と、萠黄と席を並べた幼馴染みで、今年の春、めでたく同じ大学の同じ学部に進学した。
 だが──。
「むん、ちょっと家の中に入って」
 萠黄は哀願する顔で、親友の腕を引いた。
「あんまり時間ないよー。どないしたん?」
「いいから。……聞いてほしい話あんねん」
「しゃあないなー。十分ぐらいやで」
 萠黄は、ぐずる相手を玄関に引きずり込んだ。
「萠黄は絶対一人じゃ起きられへんからって、あんたのお母さんに頼まれたから、わざわざ──」
 そうだった。萠黄は昨日、彼女が家に遊びに来たことを思い出した。そんな会話が母親と彼女の間で交わされたような気がする。
「いいから、お願い」
 萠黄は、むんに靴を脱がせると、背中を押してリビングへと導いた。むんは出迎えたウィルのニャアという声におっすと挨拶すると、ソファの上に優雅に座った。
 実際、むんは萠黄より頭半分身長が高く、足も長くてスタイルがいい。今日もスリムジーンズにTシャツ、その上に白いジャケットを羽織ったいでたちが、さらさらの長い髪にマッチしていて、萠黄はつい見とれてしまう。
「むん、忙しいみたいね」
 萠黄は冷蔵庫を(逆に)開けて、ジュースのペットボトルを取り出すと、栓を(逆に)回して開けてコップに注いだ。起床からまだ三十分と経っていないのに、すでに“逆境”に順応し始めている。萠黄は少し哀しくなった。
「──うん、被害者の遺族らで作った団体の結団式が、今日梅田であるから、ぜひ参加しろって」
「やっぱり保険金、降りへんの?」
「まだ判らへん。何が原因かも不明やから。保険会社があかんかったら政府に金出させようって、みんな息巻いてるわ」
「地殻変動が原因だってテレビで言うてたけど?」
「北海道だけがスカッと消えてしまうなんて、あり得ると思う? どこかおかしいわ」
 むんの家族は、今年の六月に起こった北海道消滅事件の被害者だ。彼女の両親と弟が運悪く北海道を訪れた日に悲劇は起こった。いや悲劇かどうかも判らない。なにしろ北の大地が、まるで大きなスコップですくい取られたように忽然と消えたのだから。
 その日、どこの地震計もほとんど針は振れなかったという。ある科学評論家は「まるで水の中に吸い込まれたように、北海道はなくなった」と言った。
 むんは家族の遭難を知ると、すぐさま現地へ向かった。しかし彼女にできたのは、下北半島の突端から、どす黒く渦巻く海を見つめることだけだった。


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