Jamais Vu
-4-

異常な朝
(3)

「ひゃっ」
 警戒していたつもりなのに、萠黄は完全にふいをつかれた。反射的に飛び退いた彼女は、トイレのドアレバーにしたたか腰を打ち付けてしまった。
「………」
 声にならない声が口から漏れた。
 萠黄にダメージを与えた相手は、すぐに彼女から離れた。そして引き戸が開いたままの和室に駆け込むと、身軽に和箪笥の上に駆け上った。
「ニャー」
 萠黄は腰をさすりながら恨めしげに三毛猫を見上げた。
「ウィルじゃない。ひどいよー」
 飼い猫のウィルは萠黄の非難などどこ吹く風といった顔で欠伸をしている。それでも萠黄は、敵地で味方に出会った気がして、ウィルに近寄った。もちろん和室の中も逆になっている。畳の一枚一枚が逆になってるかどうかまでは判らないが。
「おいで」
 萠黄が手をさしのべると、ウィルはまた一声ニャアと鳴いた。この家に来て三年になるオス猫は家族の大切な一員であり、萠黄は何度彼に慰められたことか。その彼は、やさしく呼びかけられて、ひょいとジャンプすると萠黄のふところに飛び込んできた。
「おまえも“どっきり”の犠牲者? 腹立つよねー」
 毛並みのいい背中をなでながら話しかける。その手がピタッと止まった。
「……耳、どうしたの」
 萠黄の声が強ばった。猫は飼い主の感情を敏感に察知したのか、彼女の腕をかいくぐると畳の上に飛び降りた。
「なんで、なんで!」
 今度こそ最大の衝撃が彼女を襲った。
 ウィルは以前から右耳の先っぽが欠けていた。一年前、表に出たとき、近所の犬に噛まれたせいだ。なのにいま萠黄の前にいる猫は左耳が欠けていたのだ。
 萠黄は我慢の限界に達した。
 逃げるように和室を出ると、リビング兼ダイニングの窓際に駆け寄り、床まで届く丈の長いレースのカーテンを両手で左右に押しひろげた。

 もはや驚かなかった。天井から床までの一枚ガラスの向こう、バルコニー越しに見えたのは、萠黄の記憶にある風景を正確に裏返したものだった。本来は右下にあるべきI美容院は左にあり、左端でレンガ色の壁を見せていたO和服専門学校は右端に移動している。そして、書き割りに描かれた絵では?という疑念を打ち消すように、小さく見える人々が普通に動いている様子が、遠目にも見て取れた。
 決定的なのは、朝日が右から昇っていたことだろう。バルコニーは南向きである。これでは懐かしのアニメソングだ、西から昇ったお日様だ。
 萠黄は敗北感に打ちひしがれて、カーテンから手を離した。どうやら、おかしいのは自分の方なのだ。そう結論付けた彼女は、食卓テーブルに両手をついた。
 テーブルの上には、母親の置き手紙があった。彼女はそれを持ち上げ、テーブルの向こうにある食器棚のガラスに映してみた。

“今日は早番なので先に出ます。
 とじまりはきちんとして行ってね”。

 間違いなく母親の筆跡。いつもパートに出かけるときの決まり文句を書き連ねてあるだけだ。
 萠黄は手紙を放り出し、がっくりうなだれたまま、リビングスペースのソファの上に、背中からダイブした。ソファはいつものように彼女の背中を温かく受け止めた。
「わたしの頭、とうとう反乱起こしたのかな……」
 萠黄の目に、うっすらと涙が浮かんできた。腕にウィルがのどをゴロゴロ言わせながら登ってきた。萠黄がウィルの体を両手で抱きすくめた時──。
 ピンポーン。
 インターホンが警笛のように鳴り響いた。その音は部屋の空気だけでなく、萠黄の心臓まで激しく震わせた。
 ──だ、誰?
 ソファの上に身を起こした彼女は、応答すべきかどうか迷った。こんな状態で他人とうまく話せる自信はない。居留守を使おうか?
 インターホンが再度鳴った。萠黄は腹をくくるとソファから立ち上がってインターフォンに近づいた。そして唾を飲み込み、ゆっくり受話ボタンを押した。


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