Jamais Vu
-3-

異常な朝
(2)

 ──これはきっと夢だ。
 萠黄は両手で顔を覆った。かすかなめまいが彼女を襲う。でも、めまいなら慣れっこだ。三年前、高校に入学した頃、突然体調を崩して自律神経失調症と診断されて以来、めまいは彼女にとって日常のありふれた生理現象の一つになっていたから。
 揺れ出したら、目を閉じてじっとしていること。そうやってめまいが収まるのをひたすら待つ。今日のような時は、原因が異常な視覚情報であるだけに、彼女はなおさら力を込めて瞼を閉じた。
 コチコチコチ。アナログ時計の単調な音。
 プアーン。窓の下を通り過ぎる快速電車の音。
 アハハハハ。通学途中の誰かが笑う声。
 耳に届くのは、何の変哲もない、ごくありふれた朝の様子だ。なのに……。
 座ったまま、萠黄は両足を体の方へと引き寄せた。足の裏がカーペットをズズズとこする。その慣れ親しんだ感触が、彼女を急速に現実へと呼び戻した。
 ──もしかして“どっきりカメラ”?
 ずっと昔、テレビでやってた番組だ。芸能人をだまして異常なシチュエーションに追い込み、その驚きあわてるさまを楽しもうという企画だったと記憶している。
 ──まさか。わたしなんかに“どっきり”仕掛けて、どんな意味があるの? 誰がそんな酔狂なことを? ……でも他に考えられない。だとしたら、いったい誰がどんな魂胆で???
 むくむくと湧いてきた好奇心が恐怖を上回った。萠黄は、おそるおそる顔を上げると、あらためて部屋の中を眺めた。
 廊下に出る扉は、本来左側にあるはずだった。それが右側についている。ベッドの位置も右の壁際だったのが左にある。壁に貼られた好きな若手俳優のポスターさえ右だったのが左。そして奥の壁に作りつけの衣装戸棚までが反対の位置にある。
 なんて手の込んだ仕掛けだろう。どれぐらいのお金がかかったろうか。
 萠黄は思いきって立ち上がった。赤いヘルメットをかぶった男が『どっきりカメラ』と書かれたプラカードを持って登場するまで待つつもりはなかった。
 まずは勉強机に近寄ってみる。あらためて萠黄は感心した。見事に正反対に作られている。右側に付いていた引き出しは左に移動してるし、電灯スタンドもいつもの反対側に置かれている。もっとも置き場所は移動させれば済む話だが、よく見ると、光量を調節するつまみの上の1、2、3の数字が裏返っていた。
 机の上には、数冊の読みかけの本が放り出してあった。どれも表紙の文字が左右反転していた。
「普通ここまでやる?」
 次に萠黄が手を伸ばしたのは、本の脇に置いたままの小銭入れだった。ファスナーを開けて、中から百円玉をひとつ取り出してみた。
 予期していたものの、"100" が "001"(もちろん1は反対向きだ)になっている。彼女は、間違えて虫でもつかんでしまったように、あわてて机の上に投げ捨てた。
 次に、正面の壁に貼られたカレンダーに目をやった。年号の "2014" が、やはり左右逆。各月は右側から並んでおり、日月火の曜日表記も併せて裏返ったまま右から左へと並んでいる。見にくいことこの上ない。──いや、そういう問題じゃない!
 カレンダーには簡単な予定が赤ペンで記されてあった。もちろん萠黄の手書きだ。驚いたことに、そのひとつひとつが彼女の筆跡のまま、忠実に裏返してあったのだ。
 萠黄はとうとう腹が立ってきた。これはもう冗談を通り越して悪趣味だ。笑い過ごしてなんかいられない。手間暇かけて、こんないたずらを仕掛けて、わたしにどうしろと言うのよ!
 彼女はまなじりを決すると、肩を怒らせて扉へと歩み寄った。ドアノブをぐいとつかみ、バッと手前に開く。しかしそこにはプラカードを担いだヘルメット男の姿はなかった。
 廊下に出た萠黄は、左右をきょろきょろ見渡した。右手に玄関があり、靴やサンダルが並んでいる。左に目をやると、奥まったところにあるリビングの大きな窓越しに、朝の陽光がフローリングの床を照らしているのが見えた。もちろんすべて記憶の中の自宅とは正反対だ。
 家の中はしんと静まりかえっている。
 萠黄は、まるで知らない家を探索するような、変な気持ちのまま、廊下を左へと進んだ。
 その時、何者かが彼女に向かって飛びかかってきた。


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