Jamais Vu
-1-

北海道消滅

 ヒュルルルル。
 初夏の風が、音を立てて通り過ぎていった。
 ぽっかりと浮かぶ白い雲が、強い日差しを受けて、まばゆく光っている。
 太一は、長らく眠っていた五感が目覚めるのを感じていた。それほど周囲には、心地よい刺激が満ちていた。
 視線を空から地平線へと戻すと、そこには先ほどから彼を魅了してやまない風景があった。
 波打つようにうねる丘。
 一面にひろがる色とりどりの畑。
 パッチワークのようだとガイドブックは紹介していたが、まったくそのとおりだった。いや実物はそれ以上だ。とても日本の風景とは思えない。
 北海道。美瑛。
 都会で日々仕事に追われる一介のサラリーマンにとって、ここは丸ごと、おとぎの世界である。
 息子の昇太郎が、少し離れた場所で熱心にデジカメのシャッターを切っている。日ごろの青白い顔がすっかり紅潮している。どうやら眼前の光景は、父親以上に息子の心を鷲づかみにしたようだ。
「来てよかったわね」
 白いツバ広帽子をかぶった妻の妙子が、息子に暖かい眼差しを注ぎながら、太一のそばにやってきた。
「ああ、昇太郎は生真面目な性分やから、こうやってたまに息を抜くことも覚えさせんとな。来年の高校受験まで身がもたへんよ」
 妙子はくすっと笑った。
「あなたもですよ。このところ休日出勤が続いて、全然お休みがなかったんですから」
「はは、ほんまに。妙子にも心配かけどおしやな」
「もう若くないんですから、体をいたわってください。帰ったらまたすぐ出張なのでしょう?」
「こらこら、今日は仕事のことを思い出させんといてくれ。せっかくあこがれの北の大地に来てるんやぞ。何もかも忘れてゆっくり満喫しよやないか」
 太一は笑いながら、昇太郎の方へ歩き出した。妙子も彼に付き従う。一行は昼前に旭川空港に降り立ったばかりで、ペンションへ向かう途中、つい風景の美しさに誘われてレンタカーを止めたのだ。
「本当はもっと休み取って、じっくり回りたいところやけど……。北海道が二泊三日なんて、もったいないな。お前らにもすまんと思てる」
「そんな──わたしは十分満足してます」
 昇太郎が喜色満面といった表情で、両親にところに駆け寄ってきた。そして丘の向こうを指さすと、
「ほら、あそこにちいさい教会があるで」
「どこどこ……あらホント、可愛い建物ねえ」
 目をすがめる二人に太一は、
「ちいさいことあらへん。景色のスケールが大きいから、ちいそう見えるだけや」
「あ、そっかぁー」
 昇太郎は声を立てて笑った。つられて妙子も笑う。太一も微笑んだ。
 本当に来てよかった。唯一残念なのは──。
「お姉ちゃんも来られたらよかったのにね」
「ねえー。でも言ってたわよ。バイト代貯めて、今年じゅうにきっと行くって」
「お姉ちゃんのことやから、飛行機なんか乗らへん、自転車漕いで、テントかついで行ったる〜なんて言うで、ゼッタイ」
 太一も娘のことを思い出していた。彼女も今回の旅行はずっと楽しみにしていた。ところが昨日バイト先から連絡があり、店長に出てきてほしいと懇願されたという。根が頼まれると放っておけない性分だから、一も二もなくOKの返事をしたらしいが、今朝の様子を見ると、やはり残念だったようだ。
「あっ」
 妙子のかぶっていた帽子が突然の風にあおられて飛んでいった。
「ぼくが取ってくる!」
 昇太郎がダッシュで駆けだした。
「おい、あわてて転ぶなよ」
 太一は笑って昇太郎に声をかけたが、その太一の身体がよろめいた。
 風だ。猛烈な風が美瑛の丘をなぶるように通り過ぎていった。太一はどうにか踏ん張って転ばずにすんだが、妙子は、きゃっと声をあげながらしりもちをついた。
 ごおおおおお。
 それは風音というよりも、何か得体の知れない威圧感を持って太一の耳たぶを打った。彼は音が聞こえてくる方角に顔を向けた。
 その目が異様な物体をとらえた。
 まるで大蛇のように黒々としたものが、東に連なる大雪山系の上で、身をくねらせながら屹立(きつりつ)していたのだ。
「何、あれ」
 帽子をつかんだ昇太郎が駆け寄ってきた。妙子は肝をつぶしたまま声も出ない。
「……竜巻」
 太一はつぶやいた。
 それはまさしく竜巻だった。しかも並大抵の規模ではない。なぜならここからでも、竜巻の先端が、屏風のような連山の峰々をなめるのが見えたからだ。
「父さん、山が削られてる!」
 その通りだった。見ている間にも、山々の稜線が刻々と変わっていくのが判った。竜巻がドリルのように山を砕いているのだ。
 信じたくない光景だが、まぎれもない事実だった。
 やがて変化は空にも現れた。浮かんでいた雲が次々と竜巻の方へと吸い寄せられていく。
「飛行機!」
 昇太郎の指さす方角から、大型ジェット機が近づいてきた。大丈夫かとハラハラしながら見ていると、竜巻との距離がかなりあるにもかかわらず、機影は突然、横滑りを始めた。
 太一はまばたきも忘れていた。
 機体はぐんぐんと竜巻に引き寄せられていく。やがてきりもみするように黒い渦に飲み込まれたかと思うと、閃光が走った。続いて爆発音。
 ──こ、こんなことが……。
 今や竜巻は、その醜悪な肢体を何倍にも伸ばし、ますます幅をひろげて成長しつつあった。
 まるでこの世の終わりだ。太一はそう思った。
 ぐらり。
 地面が大きく揺れた。
「昇太郎、妙子、車に乗れ!」
 太一は妙子を助け起こすと、車の方へと急いだ。しかし周囲はすでに竜巻の勢力圏内に入ってしまったらしく、畑に植えられたラベンダーやかすみ草がいっせいにバタバタとはためきだした。
 三人は正面から吹きつける強風にあおられながらも、なんとか車にたどり着くことができた。
 太一は急いでエンジンをかけた。しかしフロントウインドウを見やった彼は、驚きのあまり声をなくした。
 あり得ないスピードで流れる雲の下を、あり得ないものが飛びすぎていく。家の屋根、サイロ、車や人間。それらが紙切れのように目の前を通り過ぎていくのだ。
 ドンッ。大きな石くれがフロントウインドウを直撃した。窓ガラスにひびが入り、妙子が悲鳴を上げた。
 すでに車の前方は、さまざまな落下物で、どこが道だか判らなくなっていた。それでも太一は、やってきた国道を目指して車を急発進させた。
 大きな倒木を迂回したとき、ひびの走った窓いっぱいにパッチワークの丘が見えた。しかしそれはあまりにも無惨な光景だった。さっきまで自分たちが感動していた色とりどりの大パノラマが、いまや見る影もない。植え込まれた花々は地面から根こそぎはがされ、地肌が醜く露出している。妙子が可愛いと叫んだ教会はすでに跡形もなかった。
「つかまってろ!」
 叫ぶや、太一は傲然とエンジンを噴かして、車体を加速させた。四つのタイヤが震動する地面の上を何度もスリップした。
 しかし竜巻は、予想を超えたスピードで成長していた。
「うわっ」「きゃーっ」
 車は国道にたどり着く直前、三人を乗せたまま、大空高く舞い上がった。

「……ううう」
 正気を取り戻した太一は、自分が猛烈な風の真っ直中にいることを認識した。それでも彼が巻き込まれないでいたのは、ちょうど崖の途中に突き出た巨岩の隙間に、身体をはさまれていたからだった。
「……妙子……昇太郎!」
 身動きすると全身に激痛が走った。立ち上がろうにも右足がまったく動かない。顔にかかった土を払った手は、血で真っ赤に染まった。
 ごおおおおおおおおお。
 今や竜巻の音は、鼓膜が悲鳴を上げるほど大きくなっていた。
 太一は斜面を這うように、巨岩の陰から顔を突き出した。そこには想像を絶する光景が展開していた。
「何やこれは……」
 そこはうなりをあげる竜巻の最前線だった。
 しかし不思議なことに周囲の風は、地面のはるか下に向かって吸い込まれていた。
 見ている間にも、さまざまな物がそこに飛び込んでいった。崩れた岩や木々などの自然物、それ以外にも、付近を走行していたのだろう、トレーラーやバスがおもちゃの車のように引きずり込まれていく。もちろん悲鳴をあげる人間を乗せたまま。
 アリ地獄──まさにアリ地獄そのものだ。
 しかしこいつはウスバカゲロウの幼虫以上に貪欲だ。この世のすべてを飲み尽くそうとでもいうような勢いで、醜悪な口をますますひろげつつある。
 なぜこんなことに──。
 太一は、理解を超えた光景に、ただ呆然とするばかりだった。
 そのとき、彼の身体を支えていた巨岩がゆっくりと傾き始めた。周囲の斜面の土が次々と崩れていく。
 太一は自分の最期を悟った。おそらく妻の妙子も、我が子昇太郎も、アリ地獄の中に落ちていったことだろう。自分たち家族は、なぜこんな奇怪な現象に巻き込まれたのか、その理由も知らないまま死ぬのだ。
 太一の脳裏に、娘の顔が浮かんだ。勝ち気だが、家族思いのあの娘はきっと嘆き悲しむに違いない。だがきっと彼女はそれを乗り越えてくれる。
 巨岩は音を立てて倒れ、そのまま崖を転げ落ちていった。そして太一の身体も強風に押されてふわりと空中に舞い上がった。土くれや岩の欠片が容赦なく彼の身体を打つ。それでも彼は目を閉じなかった。おのれの運命を見届けるため。
 そして遂に太一は、竜巻の“中心核”をその眼で見た。
 そこでは、生きたままの人間がまるで砂粒のように崩れ、大型バスの車体が細かな塵となって雲散霧消していた。
「これは竜巻でもアリ地獄でもない! ブラックホールや!」
 そう叫んだ瞬間、太一の身体は漆黒の闇に飲み込まれ、彼の意識は虚無の中に断ち切られた。

 この日、日本地図から、北海道が消えた。


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