公園 9月4日(日)


 午後8時40分起床。
 私を起こしたのは時計のアラームではなくけたたましいベルの音だった。
 あれはやっぱり早く朝食を食いに来いという催促なのだろうか。
 例のごとくコーヒーのお代わりをもらい、湯で顔も洗い、歯を磨いた。
 そして私は主人にもう一泊する旨を伝えた。
 ついでに電話したいので20BF硬貨を5BF硬貨4枚に両替してくれないかと頼むと、主人は角の肉屋まで一っ走りして両替してきてくれた。どうも。

 マルクト広場に来ると賑やかな音楽が流れてきた。
 鐘楼の向こうから音楽隊が行進してきたのだ。
 隊は広場をグルッと一周すると中央に設けられた舞台に上がって、さらに演奏を続けている。
 私はその奏でられる音楽を聞きながら公衆電話の受話器を取り上げた。
 今日は日曜日、つまり自宅へコールする日なのだ。
 私は硬貨を並ぶだけ並べ、と言っても5BF硬貨6枚以上は受け付けないのだ。
 プルルルル、プッ、継がった。
 「いつ帰ってくるん?」と母の声。
 プツッ、切れた。
 用意したお金はすべて電話機の中に落ちていた。
 しかたなく私は受話器を置き、他にメーターの付いた電話がないかとマクドナルドのある広場まで探し歩いたが、そんなものはない。
 あきらめて再びさっきの電話機のところに戻った。
 今度は硬貨をどんどん落しながら会話するように心がけた。
 実はそれでも間に合わなかったのだが。
 「今ベルギーのブルージュにいてて、10日にこっち発つから日本へ着くの11日やで」
楽団  これだけ伝えるのに精いっぱいだった。だいたいうちの親も話し相手を交代しようとしたり、慌ててどもったりしてるからイカンのだ。
 国内で話しているんじゃないんだからねぇ。
 結局、約350円を投入して30いや20秒も話すことができなかった。
 ベルギーの国際電話番号は00であった。
 『地〜』を忘れてきたのだが、公衆電話の中にちゃんと書いてあったので助かった。
 電話ボックスを出た私はしばらく楽隊の演奏をボーッと鑑賞していた。
 ドラムのロールのスゴさや白髪の老人がティンパニを叩くスピードの速さに唖然としながら。

 昼食は、毎度お馴染みデパートにあるセルフのレストラン。
 日曜日なのにちゃんと営業していた。
 もちろんデパート自体は閉まっていたので、横の階段からレストランへ直通する階段を昇って入ったのだ。
 ヨーロッパは日曜となるとことごとく閉店するから困る。
 毎週日曜日には日本の松の内と同じ状態になると考えれば分かりやすい。

 食後、ブラブラと歩いて“ベギン会修道院”と呼ばれる建物までやってきた。
 とある建物の庭に小さな礼拝堂がある。
 静けさと水路と少し曇った天気が神々しい雰囲気をそれとなく演出している。
 やはり私にはイタリアやスペインの暑いところよりも、こんな涼しく静かな地方が肌に合っているな。
ベギン修道院  そのまま私は“愛の泉公園”へ入って行った。
 ここには小さなインフォメーションがあり、私はその裏にあるトイレへ飛び込んだ。
 どうやら冷えたらしい。セーターぐらいじゃこの寒さは我慢できない。
 私はセーターの上にウインド・ブレーカーを着込んだ。

 駅へやってきた私は、明日乗車するパリ行きの列車は何番線から発車するかを確認した。
 私が駅舎を出ようとすると、30代くらいの若夫婦が近づいてきた。
 何か私に話しかけてくるのだが、英語ではないようだ。
 私が英語しか分からないと言うと、夫人の方が英語で、
 「インフォメーションはどこですか?」
と尋ねてきた。
 夫の方は彼女の腕を握ったまま、あらぬ方を凝視している。どうやら盲目らしい。
 「少し待ってて下さい」
私はそう言って切符を売っている窓口でインフォメーションの場所をたずね、2人に、
 「Come on」
と手招きしてインフォメーションの場所まで連れていった。
 夫婦は丁寧に私にお礼を言ってくれたが、どうしてわざわざ外国人の私に声をかけたのだろう?
 アテにされるのは構わないが、少し不思議な気がした。

 待合室の木のベンチに座って日記を書く。
 このブルージュにも長く居るなぁ。もう見るところが無くなったよぉ。
 外はまた雨だ。小降りだし濡れていくか、と腹を決めて駅舎を出た。
 アンティーク市は今日も繁盛していた。
 子供がほとんどガラクタのようなオモチャを売っていたり、食い物屋の屋台が並んでいたり、なかなかの盛況だ。
 私は目を十分に楽しませてからインフォメーションへ入ってまた日記を書いた。

 シャワーでも浴びようかと宿に戻ったが、シャワー室は午後6時以降しか開けないとのことなので、先に飲みにいくことにした。
 数日前に浜谷氏と夕食を食べたイタリア風の暇なレストラン。
 今日は数人の客がいた。私は一人で広場を眺めながらビールで喉を潤した。

運河  宿へ戻った私は部屋にアジア人らしき男がいて捜し物をしている風だったので、英語で声を掛けた。
 彼は自分のベッドがどれだか分からなかったのだ。
 私はベッドの頭に番号が貼ってあることを教えてやった。
 そしてようやくシャワーを浴びることができた。
 熱い湯はちゃんと出るのだがあちこちと飛び散るので非常に困った。
 私は我慢して髪の先から耳の中まで念入りに垢を洗い落とした。
 ここの共同シャワーは男女兼用である。
 つまり隣りで女性が浴びている場合もあるわけだ。
 フランクであると言えば言える。

 部屋に戻ると外人が一人だけ居て私にHelloと声を掛けてきた。
 「下のバーへ飲みに行かないか?」
と言う。
 私は断わる理由もないので、O.K.した。おそらく彼も退屈していたのだろう。
 私達はドミトリーの1階にあるいつも朝食を食べている場所へ降りていった。
 私達は互いにビールで乾杯した。
 「オレの名はジェフだ。君は何と呼ばれているんだい?」
 私はしばし熟慮の末、
 「うーん。ノリーでええよ」
と答えた。
 最初のビールは彼のオゴリ、お代わりは私のオゴリとした。
 「互いに金を折半することをワリカンって言うねん」
と私は変な日本語を教えてしまった。
 「オレの国ではshautと言うよ」
 「シャウト!?」

 私は思わず叫ぶ真似をした。
 そりゃshoutだって。
 すると私のそばにいた女の子らも私の真似をして叫ぶ身振りをしたりして大爆笑。
 今やこのバーにいる同宿の若者達約20人は一体となっていた。
 ジェフはオーストラリア人。母国はいま冬だという。
 彼とパスポートを見せ合ったが、オーストラリアのそれは日本のものよりも小さいのだ。
 1960年11月26日生まれの22才。ジェフは私のパスポートに貼り付けた写真を見て驚いたようだ。
 ジェフの横に座っていたアメリカ人も大きく目を見開いてタマゲタというジェスチャー。
 「このヒゲはヨーロッパへ来てから生やした(make)んよ」
と私が言うとジェフは、
 「そういうときは"grow"って言うんだぜ」
と訂正してくれた。
 ジェフによると、私の斜め横に座っていた女の子2人組は北欧の出身だと言う。
見るとなかなかの美人。私は思わず、
 「そりゃ失敗やったなぁ。ボクは北欧の方は回らへんねん」
と言うと、ジェフとアメリカン氏は、
 「確かに大失敗だな。あそこは美人ばかりだぞ。行かないなんて信じられんな」
と面白がって私をさんざんにからかった。
 悔しいので私はその北欧美人達に話しかけ、話の仲間に強引に引き込んだ。
 私は頻繁にギャグを飛ばして彼女らも大笑い。
 「ボクはビートルズのコピーバンドで演奏してんねん。もちろん英語で歌うんやけど、日本ではどんなヘタな英語でも大丈夫」
そう言って私は“Yesterday”を歌い始めた。美人も爆笑。なんて笑わせがいのある人達だろう。
 ジェフはさらにグラスを重ね、話すよりも飲んでばかりだ。
 私は隣りのアメリカン氏と話し続けた。
 彼はガールフレンドと2人で海外旅行を楽しんでいるという。
 確かに隣りに彼のガールフレンドがいた。
 彼は私にいい話をしてくれた。
 「明日パリに行くんだが、パリのある本屋で働かせてもらうつもりだ。そこで一時間ほど掃除したりして働いたらタダで泊まらせてくれるんだ。君も来るか?」
 「えっ? ボクでも構へんの?」と私。
 「もちろん」
 私は明日、彼らと一緒にパリへ向かう約束をした。
 ただ彼らは明日この街を観光して回るのでブルージュを出るのは午後4時頃だという。
 遅くなるけどマァしかたがないか。

 夜遅くなってようやく部屋に退散してきた。
 ベッドに上がろうとすると先ほどのアジア人が話しかけてきた。
 なんと日本人だったのか!
 しばらく彼と話した。
 「私はニューヨークへ留学してもう一年になるんです。でもまだ英語も喋る方はうまくいきませんね」
と彼は言う。そしてアメリカ人の事については、
 「彼らの底の浅さも、これまでイヤというほど見せられましたよ」 と手厳しい。
 「買物をした時、釣銭を払った払ってないで、私は詐欺呼ばわりされてスゴイ喧嘩をしましたよ」
 彼は関西人だった。懐かしいなぁ。私は嬉しくなった。
 今日は本当に珍しいほど楽しい日になった。ドミトリーの醍醐味はこれなんだな。

 しかし私の絶頂気分もそこまでだった。彼は言った。
 「大韓航空機がソ連の戦闘機に撃墜されたそうですよ」




《データ》
9月4日 日曜日
天候
訪問地Brugge
宿泊先Snuffel Kafee/sleep-in(Ezelstraat 49)
宿泊料210BF
食事宿にて丸パン2個, ジャム一コ, バター一コ, コーヒー2杯
『地〜』掲載・セルフのレストランサラダ大, ステーキポテト, 豆, ケーキ, コーラ
買い食いポテトwithマヨネーズ, ビールをトータル3杯
出費昼食354BF(1,770円)
電話70BF (350円)
ポテト45BF (5BFはマヨネーズ代)(225円)
ジュピター・ビール30BF (150円)
ビール225BFx2 (250円)
宿泊料210DM (1,050円)
合計759BF (3,795円)