8月20日(土)


ゴルナーグラート  午前7時半だ。
 食堂の水道で飲み水を補給して、宿を出て駅まで駆け足。
 駅は昨日到着した駅とは別のもので、このツェルマットから更に登るための登山列車の駅だ。
 アプト式の鉄道で(どういうものかは知らない)、標高1500mを45分で登る。
 私はギリギリで間に合った。

 列車は出発するなりグングン高度を上げていく。
 生駒山上へのケーブルカーを思い出させる。
 見えた!
 マッターホルンMatterhorn
 4477mだ!雲もなくハッキリと見える。
 レールの周囲の林がだんだん減り始め、草原の中にも岩肌が見え始めた。
 列車は途中で何度か停車して積んでいた食料を降ろして、また黙々と登っていく。
 時間の経過と共にマッターホルンの頂きにも雲が現れ始めた。

 終点のゴルナーグラートGornergratへ着いた。
 標高3130mだ。
 登山列車を降りて、唯一つの展望台へ行った。
 なんという景色だろう。
 360度すべて山。
 眼下には氷河。
 それらが手を出せば届きそうな所にあるかのような錯覚に見舞われた。
 極めて澄み切った空気のせいだ。そして陽光の強さ。
 じっとしていると体の陽の当たる側は熱いのだが、陰側は寒いのである。
 恐ろしく静かだ。
 聞こえるのは僅かな人の声、鳥の鳴き声、遠くの滝の音、ロープウェイの滑車の音、そして蝿の羽音。
 再び視線を山に戻した。
 モンテ・ローザMonte Rosa,4634mなど、4000m級の山々の威容、その間を流れる氷河の迫力、氷河の中にポツンと開いた穴に溜った水の信じられないような青さ。それらが当然のようにそこにある。このことに私は素直に感動した。
 ヨーロッパに着いて以来、積もりに積もった疲れ、また名所旧跡に対する不感症(感動しない病?)が一掃されてしまった。
 スイスは日本人にとって、いわゆる美しい場所として紹介されているが、この気持ちはここへ来た者でないと絶対に理解できないと断言できる。
 これまでに見てきた場所は「あっ写真の通りだ」で終っていたのだが、この絶景は想像を遥かに超えている。
 私は日本では山登りをしたことのない人間なので、よけいにそう思えるのかも知れない。

ゴルナーグラート展望台  私は最も高い場所にある岩に座って、周囲360度を10枚の写真に収めた。
 グルリ一続きである。そのあと、性懲りもなく日記を書き始めた。
 私の周りを飛び回る蝿がやたらにうるさい。ずいぶんといるぞ。
 展望台の脇にある建物にはセルフサービスの食堂があったので、ここで朝食と洒落こんだ。
 空気が旨いので食べるものも旨い。もう最高最上無上至上至福究極至高の気分を満喫。
 文字どおり心の洗濯というヤツだ。

 下りはトレッキング。
 先ほどの氷河の中の水溜りを目標にしながら進んだ。
 よく見ると氷河の脇を動いているものがある。
 蟻かと思ったがどうやら人間のようだ。すると水溜りはかなり大きいことになる。
 空気が澄んでいるため距離勘が得られず、大きさが分からないのだ。
 道の両側を飾る花の黄や青が美しい。

氷河  天候が怪しくなってきた。
 マッターホルンも今や完全に姿を隠してしまった。
 雨も少しパラついてきた。
 陽光がかげると山々の色もくすんで見える。
 私は靴の痛みが心配なので、できるだけ石コロを踏まないように注意して降りていった。クツも一張羅なのだ。
 私は天候が私自身の気分にも影響し始めたのに気がつき、これではイカンと考え、周囲に誰もいないことを確かめてから大声で叫んだ。
 「ィヤッホォーーーーーーーーーーーー」

 道は林に入った。
 それにしてもさっきからすれ違う、もしくは追い越す人間はカップルばかりだ。
 こんなところに来るんじゃない! 不純な奴らメ!!!

 ようやく道は平坦になり、雲に遮られていた太陽も、再び緑の大地に陽の光を注ぎ始めた。
 こんなに晴れ晴れした気持ちで歩くのは何日ぶりだろう。
 道はツェルマットの街に入った。
 電話ボックスがある。よし、ここから日本に電話してやろう。
 一度のダイヤリングで通じた。父が受話器に出た。
 「今、スイスのツェルマットにいてる。元気にやってるで」
 母に代わった。
 「絵はがき、今日着いたよ」
とのこと。この電話機は入れたお金の残りがメーターで表示されるから助かる。

 宿へ戻った私は日記をつけた後、マーケットに買物に出かけた。
 パンやオレンジを持ってレジへ行き、手下げのビニール袋をくれと言うと、20サンチーム(約25円)だという。それならいらない、とそのまま手に持って宿へ。
 カップ・スパゲティは調理方法が分からなかったので、松井氏に御教授してもらった。
 そしてトマト、レーズンパンと一緒に食べた。ここも蝿がやたらに多い。

 今日は寒い。
 セーターを着ていても震えることがあった。私はシャワーも浴びずに軽く体を拭くだけで11時前には床に入った。
 あぁ、いい日だった。




《データ》
8月20日 土曜日
天候快晴一時雨
訪問地Zermatt, Gornergrat
宿泊先Hotel Bahnhof
宿泊料15S.fr
食事ゴルナーグラートのセルフにて[パン, コーヒー, イチゴケーキ], [パン, オレンジジュース, サラダ]
持っていった物レーズンパン
持っていった物トマト, キュウリ, スパゲティナポリタン, レーズンパン
出費登山列車12.5SFr (1,500円)
朝食4.9SFr (590円)
朝食27.7SFr (920円)
家へTel.7SFr (840円)
夕食の買物7.1SFr (850円)
宿泊料15S.fr (1,800円)
合計54.2SFr (6,500円)