月澄高校一年 の、とあるクラス。そこに貧乏大家族の白雉家次男、白雉嘉禄は在学している。 普段より明朗快活なサッカー小僧である彼。 その行動力、言動、反応(リアクション)、境遇(主に兄のことと家のこと)などにより人気があり、人望も厚い。 本人に自覚はないものの、彼のクラスは彼を起点にムードが盛り上がるようになっていた。周りもノリのいい人間が集まっており、現教育問題の最重要点であるいじめなど、このクラスには影も見られない。 しかし 朝のホームルーム前のいま現在、その嘉禄在学のクラスはどこか重苦しい雰囲気がほこりのようにあたりに漂っていた。 沈鬱としているわけではない。 話し声はそこかしこからしているし、笑い声だって絶えてはいない。みな、思い思いの友人と歓談していた。パッと見、ありふれた朝の教室風景である。 しかしいつもと違う。 いつもとあからさまに違う人間がいるからだ。それこそ、ムード起点となる男、白雉嘉禄である。 姿形はいつもと一緒。知っている人間がみれば誰が見たって白雉嘉禄である。 しかし知らない人間が見ようと、今の彼はあからさまに不機嫌であることがわかった。 眉間にこれでもか、と二重三重にしわを刻んでいる。 頭痛でもしてるんじゃないかと心配になるくらいだ。しかし前方を睨む鋭い眼つきがそれを否定していた。 そして奥歯を噛むように口を閉め、腕組みをして足を投げ出してイスに寄りかかっていたり。 人差し指が組んだ腕をとんとんとイラただしげに叩いていたり。 はっきり言って、不良にしか見えなかった。 いつも明るい嘉禄を見てるクラスメイトは、彼の半径2メートルは近づけず、不自然に空間が開いている。嘉禄の前の席である女の子は登校してきたらぎこちなく、 「おは―――っ・・・・お、おは、よ・・ぅ・・・・白、雉くん・・・・」 挨拶をしたのだが 「・・・・あぁ」 鈍く光る眼光にあてられてしまいさらに猛獣の唸りのような声を聞いてしまい、 「ひぇ・・・・・・!」 身をすくめてしまった。そして机にカバンを置いたらすぐさま歓談してる友達のところへ逃げたものだった。 彼をとりまく東吾に恵、雄介といった友人たちは、いつも通りに嘉禄をとりまいていた。とうぜん半径2メートル以内である。が、何を話しかけても「あぁ・・・」だの「あ゛ぁ゛?」「うるせえ」だの「だまれ」と最初は生返事だったのが最後には脅し文句になっていった。 なにをそんなに脅したいんだ、というほどの重低音である。なにせ三人のほうなど見ずに前方を睨みながら言うのだ。いま嘉禄の前にヤクザがいたらどうなるかな、と雄介なんかは無駄な心配をする。 そんな矢先、兄貴肌でちょっとうっかり気質な東吾が椅子を鳴らして立ち上がった。 雄介と恵は立ち上がった彼を見上げたが、嘉禄は依然、黒板を熱視線で焦がそうかというほど前方を睨んでいる。 「おい嘉禄!いー加減なんとかしろその顔!その眉間!お前は偏頭痛もちのアーノルド・シュワルツネッガーか!?」 「ちょっ、東吾」 いーかげん我慢ならなくなったのか立ったまま嘉禄を指さして騒ぐと、雄介がそれをなだめようとする。 「ケッ」 言われた嘉禄はさも迷惑そうに吐き捨てた。 「『ケッ』とはなんだ!?『ケッ』とはあ!」 「やめなって東吾」 今度は恵がなだめる。 「そうだよ。たたでさえ東吾は不用意に嘉禄を怒らせることが多いんだから」 便乗してまたも雄介はなだめる。 「ふよ・・・!べ、別にわざとじゃないぞ!」 「いやだから『不用意』って言ったじゃん」 すかさず雄介はツッコんだ。 「俺はただ、嘉禄がムスーっとしてるせいでなんか変な空気になってるのが嫌なんであってなあ!」 「ほっとけよ」 ムスーどころではなく禍々しく顔を歪ませている嘉禄は、ぶっきらぼうに幼なじみを拒否した。 それほど声色が低くなっていなかったその言葉は、彼なりの気遣いなのだろう。 さっきから発している単語ばかりの言葉はいずれも毒のような瘴気が込められていたものだ。 急に訴えを断絶されて東吾は二の句を次ぐのにためらった。ためらってる内に雄介に肩を、恵に腕を引っ張られて椅子に座らされる。 「・・・・なんだよ」 椅子に押し付けられて東吾は誰ともなく不満げにつぶやいた。 嘉禄は彼らにかまわれるのもわずらわしいらしく、組んでた腕をといて頬杖をつき三人から顔をそらした。 「ひっ」 「ち、ちょっ、な、なにが『ひっ』だ!あやまれバカ!」 「お、お前だってどもってんじゃん!」 「うるさいだまれバカ!」 歓談していたクラスメイトが嘉禄のとんがった眼つきを向けられその邪視線に刺され、ひじで突つきあいながらカニ歩きで教室を出て行った。 その姿を三人は、すこし哀れむように見る。 「・・なあ、もういーじゃねえか。機嫌直せって」 邪眼に射すくめられたクラスメイトを見送った後、嘉禄の後頭部に向かって東吾が口を開く。先ほどとは違って、諭すような口調だった。けれど嘉禄はこちらを見るどころか反応すらしない。 「・・・雄介も恵もなんか言えよ」 なんて言えばいいか全くもってわからずすぐに友人に助け舟を求める。自分がたまに嘉禄を怒らせることは確かにある。頭より先にいろんなとこが動くタイプなのだ。それがたまに嘉禄の地雷にひっかかるわけで。つまり頭をつかって動かすタイプじゃないのだ。だからどうもなんて言えばいいかがわからない。 「なんかって言われても・・・」 わからないのは雄介も同じらしい。困ったように視線をめぐらせて考えていた。 「昨日のことはさ、誰彼が悪い、なんて簡単に言えることじゃないんだよ?」 のんびりしてる恵がここで、嘉禄が怒っている、核心のその話題を出す。 それでも振り向きもしない。 「ちょっと恵・・・」 やんわりと雄介がたしなめると、恵はそちらを見て、素直にやめた。 東吾はどうにかしたかった。怒った嘉禄など何度も見てきたが、怒りをこんなにも溜めているのを見てるとなにやら不安になる。 雄介は考えていた。嘉禄が怒っている理由は理解できるが、だからこそどうすればいいのかわからない。 三人の中でただ一人、恵だけは本来の気質どおり、のんびりと嘉禄のことを案じていた。 嘉禄がいつまでも怒りを溜めていられるはずもない。放っといておいても遠からず爆発する。だからそれまでこの嘉禄につきあってやればいい。 マネージャーらしく、選手のことはよくわかっているようであった。 ただ、その怒りをどういうふうに爆発させるかは予想していなく、そこのところはどうにも楽観的だった。 朝の教室で四者四様、黙っているところ。 闖入者が現れた。嘉禄と肩を並べるこのクラスのムードメーカーである。 「おっはよーさーん!かーろくー!・・・おぉ?なんや、す、すごい顔やなあ・・・。どうしたん。あ、三人ともおはよーさ、んぶっ!?」 嘉禄の前に回りこんで挨拶をしていた彼女を、東吾と雄介がその口を塞ぎ、それに恵が加勢して嘉禄より遠ざける。 嘉禄は 「・・・・・」 挨拶をしそこねて眉間にしわを寄せたまんますこし呆然。片頬の上がっているその顔はさっきよりも威力があった。彼らのほうを興味なく睨んだあと、頬は下ろし窓の外を睨んだ。 その窓の外にいた小鳥が逃げるように飛び立った。 「〜〜〜〜〜!?」 登校してきたばかりだというのに、明るい関西弁が特徴の山下笑香はあわれ、後方ドアより教室の外まで押し返された。 「余計なこと言っちゃいかん山下」 「そうだよ。今の嘉禄だと女の子でも殴りかねないよ」 「うん、山ちゃんなに言うかわかんないし」 二人は塞いでいた手を放し、恵ともども山下に詰め寄る。三人とも彼女が『余計なこと』を言いそうな人物であることを知っていた。というかクラス中が知っていたから、今日の登校でみんなが彼女の出現を恐れていた。 そのところを三人が急遽、教室外に連れ出したので、室内じゃ控えめに安堵のため息をもらす生徒が続出していた。 「ちょっとなんなんいきなり!?あたし嘉禄に挨拶しただけやん!朝の挨拶は大切なんやで?万国共通、コミュニケーションは挨拶からや!」 「今の嘉禄に山ちゃんはコミュニケートしないほうがいいよ」 「なんでよ?」 不可解だ、と顔に書いて質問する山下にかくかくしかじか、三人は一気に話し始める。 「それはだな」 「それはね」 「うーんとねえ」 内容が気にはなったが山下は持ち前のノリの良さを発揮してツッコんだ。 「ちょっと!うちは聖徳太子かーい!」 ぺちこーん(恵) 「うあ」 ぺちこーん(雄介) 「あて」 ベチコンッ!!(東吾) 「いでぇ!」 山ちゃんは三人を順に叩いた。 「なんで俺だけ強いんだよ!」 「特別あつかいや」 「普通にあつかえ!」 「だって東吾って殴りやすくって〜」 「笑顔で言うところじゃねえから!」 恵と雄介がはたかれた額に手をやり苦笑し、そんなふうに廊下でコントをくりひろげていた所。 「・・・・きたっ・・・」 教室から小さく、けれど追い詰められたような切迫した声が聞こえてきた。今の尖ったナイフみたいな嘉禄がいるクラスには山下よりも恐ろしい存在。 いつも騒がしくなんやかやと喋ってるので、教室からでも声が聞こえてきて判別できるのだ。四人がいるドアの、向こうのほうからその男はやってきた。 菅野である。 「おう!ぐっどもーにんぐ我が親愛なる級、うおお!?」 嘉禄、山下と肩を並べるムードメーカーが決まり文句で登校してきた、 途端にクラス中が彼を教室に入れまいと出入り口に押し寄せた。机を押しのけ椅子を倒しほこりをまきあげて、彼が入ろうとした前のほうのドアに集合しガッチリガード。 動いていないのは窓の外を睨みつづけていた嘉禄だけである。 とはいえさすがにこの状況に、窓から出入り口に視線を移した。 押し寄せたクラスメイトは誰一人背後が怖くて振り返れない。チラ見すらできない。 ちなみに彼らはこの、ムードメーカーであり新聞部の菅野、が登校してきたらこうしようなどと話し合いなんかもちろんしていない。 大した団結力である。 「ちょっ!?なんだよみんな!?なにするんだ!?今日はすごいニュースがあるんだぜ!?聞いて驚いてくれ!なんとあの『黒龍一派』が本格的に動いたん」 「あ゛ぁ゛!!?」 菅野が言い終わらない内に、嘉禄が牙を剥いた。 勢いよく立ち上がり、その勢いで倒れた椅子を蹴り飛ばす。暴力的な音が教室に響き、さすがサッカー部というところか蹴った椅子は端までガッ!ゴッ!と転がる。最終的には勢いよく壁にぶつかって破壊音を響かせた。 「ひっ!」 「ひぃぃぃいいぃ!」 「お、おいよせ喋るなスガっ」 「お願いだから黙って菅野くんっ」 「その話しないで!」 「いやあ!うしろっうしろが怖い!お願いだからもうちょっと前に行って!」 「ムチャ言うなよ!なんのために出入り口固めてんだ!」 「そうだよ!このままスガを教室に入れたら大変なことになるぞ!つーか向こうのドアから出ればいいだろ!」 「いやあ来るぅう!歩いてくるぅうう!」 クラスメイトたちは戦々恐々。まるで幽霊のような扱いである。いや怪物だろうか。とにかく、その中をゆっくり嘉禄は眼をギラつかせながら、クラスメイトが団子のように固まっている出入り口に向かう。 「・・・え?なに誰いまの?」 封鎖された出入り口の向こうにいるため、菅野には教室に誰がいるのかわからない。声だってドスの利いた唸り声は、とても平常時の嘉禄とはかけはなれており判断がつかない。 「東吾ぉ!なんとかしてくれえ!」 必死に救いを求めるその声は、反対側のドアで成り行きを呆然と見ていた四人のうち一人を呼んだ。 呼ばれた人物のその瞳が、イタズラに光った。 「だっしゃああああ!」 東吾は数歩、助走して向かいのドアのほうへ跳んだ。 すかさず応えるあたりはさすが兄貴肌のサッカー部FWである。パスがくればすぐさまシュートする性格なのかもしれない。 というより、嘉禄の状態をどうしたらいいのかイライラしていたからそれのあてどころが欲しかったのが一番の理由であった。 「ぐぶッ!!」 空中より繰り出したひねり気味の蹴りが見事、菅野の顔面にヒット。 「ち、ちょ、東吾!?」 雄介の驚愕が響くなか、顔面に東吾‘S靴跡をスタンプされた菅野はきれいに廊下に倒れていった。ねじりの利いたキックは相手を半回転させ、廊下にうつぶせにドターン、・・・と倒れこませる。 菅野、登校して数分としないうちに理由もわからず強襲に遭う。 そしてその倒れる音が廊下に響くなか、ズダッとおなじくきれいに着地する東吾。 蹴りにしろ着地にしろ、なんとも見事な飛び蹴りであった。 「・・・フフフ」 着地体制からゆっくりと東吾は起き上がり、 「アーイ・アーム・ウィナー!!」 拳を天に突き上げ勝ち鬨を吼えた。 クラスメイトはうろたえた。 誰も見ていなかったが、嘉禄は教室の中ほどで歩みを止めていた。眉間にしわを寄せたまま、その唇はめくれあがって呆れていることを示している。 誰か一人でも振り返っていたなら、間違いなく悲鳴をもらしたであろう凶悪な顔であった。子どもが見たら泣いただろう。 後方のドアのほうでは 「・・・・・・」 雄介が絶句しており。 「あ、・・・あはは」 恵は苦笑し。 「なんやわからんがナイスキックやな」 山下がとりあえず褒めていた。 それをキッカケに静まっていたクラスメイトはにわかにざわつきだす。 「おぉ・・・・」 「すごかったな今の」 「ホントになんとかしちゃったよ」 「・・・なんとかしてくれとは言ったがこれはちょっと」 「ていうか白雉くんのほうをなんとかするんじゃないの?」 「でも結果的に、ねえ」 「うん、・・・スガっち倒されちゃったし」 「・・・・菅野くん・・・大丈夫なの?」 「ま、まあ、でもほら。スガが悪いって」 「う、うーん」 「でもすげえな東吾」 「あぁ、すげえよ東吾」 「うん。たしかにすごい」 ささやきはさざなみのように大きくなり、最終的には『すげえよ東吾』と結論づいていた。褒められる行いではないというのに。 しかしとにかく止めた、という行為をそれほどまでに感謝するほど、クラスメイトたちは今日の嘉禄が恐ろしいのであった。 「どうだ!なんとかしたぞ!」 倒れている菅野は放っぽいて、勝利の笑顔でクラスメイトにVサイン。 「なんとかって・・・」 ほかにやりようがあっただろう、と雄介は呆れていたが有効そうなものはすぐには思いつかなかった。 クラスメイトに至っては 「おう!やるな東吾!」 「あぁ!すげえ蹴りだ!」 「さすがサッカー部だな!」 「サッカー部は人蹴らないわよ」 「いっそ空手部に転部かあ!?」 「あ、いーかも!」 「ねー!茶帯とか似合いそう!」 「いやそれ失礼なんじゃない?」 合間にツッコミが入りつつ絶賛していた。さっきは嘉禄に恐々と騒いでいたのに、いまや東吾の菅野撃退に嬉々として騒いでいる。 なんにしろ騒がしいクラスだ。 そしていつのまにか東吾はさっきのガッツポーズに戻っており、彼に助けられたクラスメイトたちは「トーオーゴ!」「トーオーゴ!」「トーオーゴ!」と囃し立てている。 「これでいいのかなうちのクラス・・・・」 雄介がその風景を見ながらつぶやいていた。 「スガくん、だいじょうぶ?」 そのかたわらで恵が、誰もかけよらない被害者に声をかける。うつぶせに倒れているので顔が見えない。ちょっと死んでるようにも見える。 「状況把握が・・・・・できないんだけど・・・」 伏せてるせいでくぐもった声だったが、聞こえてきて恵はとりあえず安心した。うん、鼻はつぶれてないみたい。 声だけでわかるあたりはさすがマネージャーというところか。 東吾もあれで手加減したのかもしれない、と恵は思った。 だがそれならひねりまで入っていたキックはなんだというのか。 「状況、ねえ・・・・・・、ある程度のことは知ってるよね?」 知らなかったのならこんな目にも遭わなかったはずである。まあ、彼の部活と性格を考えればおよそそんなことはなかっただろうけど。 「うちはなーんも知らんよ。説明してえな恵」 知らないからそんな目には遭わなかった(けど性格上、それでも遭ったかもしれないもののそれを三人が阻止した)山下が後ろから割り込んで来て、恵は嘆息した。 「あ、ちょおなんなんそれ」 山下は心外そうに恵のため息を非難した。 そう言われてもすこし長い話なのだ。一人一人に説明するのは手間である。周囲がささやいてる噂話をいくつか総合すれば事態はわかるだろうが、山下の性格を考えるとどうせ嘉禄と身近な自分には確認のためにまた訊いてくるように思う。 「じゃ、保健室でね。雄介ちょっと手伝ってくれる?」 「ああ、うん。わかった」 倒れてる菅野を雄介が肩を貸して立たせ、反対側から恵が支えて保健室に向かう。 同行者は山下。意味はないが、笑いながら菅野の背中をさすっていた。 「なんやわからんがあんまりな目におうたなー」 「なんでだろうなー・・・」 菅野はのんきに顔をしかめながら、その顔についた足跡をさすっていた。 教室のドア前からはいまだに東吾コールが続いていて。 怒気を削がれた嘉禄はすでに蹴り飛ばした椅子を持って席にもどっており、また外を睨み続けていた。 その眉間にはさっきよりもしわが増えていた。 嘉禄が怒っているのは、ケンカが原因だった。 彼がしたのではない。 彼の兄、白雉家長男の嘉祥によるものだった。 しかも嘉祥自体が引き起こしたわけではなく、巻き込まれただけであった。 話は昨日の放課後にさかのぼる。 白雉嘉祥は平時より呆としている、穏やかで気の優しい家事上手な少年である。 その細腕で弟妹四人+α(彼曰く「ハウスダスト」)の食事その他の面倒をみている。 しかしそんな彼の内実を知らない者は白雉嘉祥という人物を誤解し、いつからか『黒龍』の異名を付け、彼の友人なり周囲をまとめて『黒龍一派』などと呼び恐れていた。 遠因の一つに彼自身のその呆けている性格がある。 いつもぼーっとしているため、無機質な無表情はなにを考えているのかわからない。そして無口なため、さらになにを考えているのかわからず。喋るときも、どうにものんびりとしているため、相手は何か言われる前に恐れて去ってしまう。 喋っても単語くぎりの短い言葉で、どうにも真意が伝わらない言い方なのである。 だからこそみんな彼を知らない。知らないからなにか不気味、という印象をもっているのだが。 しかしそれだけで『黒龍』と呼ばれているわけではない。 一番の理由には嘉祥の友人の姿がある。 灰峪雪彦、という不良の友達である。 その存在が嘉祥に異名を付けるほどになった。不良の友達は不良である、というのは至極自然な見解だ。 そしてそれをふまえて人は、あのぼーっとしてるだけの雰囲気に不良としての『風格』を見出し。無口なのもその風格の一つだと認め。 何を考えているかわからない彼の脳内は、およそケンカの日程と戦闘シュミレーションに忙しいのだと想像した。 そんなふうに思われてることを本人は知らず。だからこそ否定する者もなく。時間とともにそれは立派に定着したのである。 月澄高校で白雉嘉祥の内実を知るものは、その友人か、もしくは弟である嘉禄の友人と関係者か。それぐらいである。 学校の大部分はいまだ『黒龍』と恐れていた。 一度定着すればもはやなかなか解けるものではないだろう。 そんな恐怖のブラックドラゴンは、放課後、帰宅するために校門までのグラウンドの道を歩いていた。 めずらしく灰峪が勉強なんぞをやっていて、めずらしいのでつきあっていたら少し遅くなってしまった。というか内申のまずい教科だったので宿題だけでも出そう、というなんとも彼らしいものだったのだが。不良の彼がまずいというならば本当にまずいのだろう。しかも提出期限は今日である。 周りから見たら今度はどこを襲撃する会議だろうか、と思ったらしくみんなそそくさと教室から逃げ出してしまっていた。 目処がついたので、嘉祥は先に帰ることになった。夕飯の支度があるのだ。灰峪はそれを知っているからこそ嘉祥を追い出すように帰した。 校庭では野球部に陸上部などといった面々が声を出して部活に励んでいる。 嘉祥はそちらのほうは一切見ずに、黙々と歩きながら今夜の献立を考えていた。 彼の脳内はだいたい特売日の日程か家事・調理関係に忙しい。間違っても人を殴るようなことには使われていないのである。 卵はあるし、ひき肉もあったな。タンパク質は問題ないか・・・・・。野菜は、・・あぁ菜っ葉はなんにもなかったかな。安かったら買っておくか。 主夫らしく冷蔵庫の中身を頭の中で反芻していると、左の校庭側から声が上がった。 「げえ!!あ、ちょっと!!!」 なんだ? 顔を向けることなく、嘉祥の顔は体ごと、向こうとした反対側へ衝撃とともに軽く吹っ飛んだ。 一瞬、宙に浮いた。 左頬に硬球がジャストミートしたのである。 痛いと思う間もなく、右頬が、右半身がアスファルトの通路に擦られた。 ・・・・・・・ん、んん?な、なんだ? 濁る意識のなか、左頬よりも擦った右頬のほうが痛いと感じていた。ただ左頬はやたらと熱かった。 そして校庭のほうから悲鳴らしきものが聞こえた気がしたら、嘉祥は眠るように意識を失っていった。 ・・・・・歯、・・・抜けてない、かな・・・・・・。 どこかのんきな心配をしながら。 タイミングが悪かった。 小休止でトイレに行っていた灰峪は偶然、その教室までの帰り道に窓から、校門へ向かう嘉祥が目に入っていた。そして瞬間的に、その体に硬球が当たり吹き飛んだのを目撃した。 「なっ!?・・・あの、グズッ!」 悪態をつきながら反射的に階段を駆け下り、上履きのまま昇降口を抜けて友人のもとへ駆け寄る。 放課後で人がいないので、睨みを利かせて通路を開けさせる必要もなく、すぐに嘉祥のところへ辿り着いた。 それはボールをぶつけた野球部員たちよりも早かった。 「おい白雉!生きてんだろうな!おいコラ!」 駆け寄りながら声をかけるが返事も反応もない。大怪我でもしたみたいに倒れ伏してる。 まさか気ぃ失ってんのかよ? 硬球がぶつかったぐらいで情けねぇなぁ。と、少々乱暴に思いながらすこし心配になった。よほど強い球だったのか。 様子を見ようとかがみこんだ灰峪に、尻込みしながら野球部員たちが駆け寄ってきた。 『黒龍』にボールを当ててしまったという、恐怖がにじんだ動揺を背後に感じながら、灰峪の耳は聞き捨てならない言葉を拾った。 「うわ・・・・・・、ほんとに当たっちゃったよ・・・・・」 それが、キッカケ。 灰峪は立ち上がり、いちばん近い部員の胸倉をつかみグン、と引き寄せていた。上から押しつぶすように睨みながら顔を寄せる。 「ひっ!」 野球帽の下の顔が、動揺を含んでいたものだったのが恐怖だけに塗りかわる。 「どういうことだ」 今日の嘉禄に同様。怒気を抑えた、獣の唸りのような低い声。眼つきが鈍くほそめられる。 無表情の嘉祥とはちがって灰峪の眼つきは整って悪い。さらに本物の不良である彼の睨みはあまりに抗しがたい威力を擁していた。 「てめえら、はなっからコイツに当てるつもりだったのか!!」 締め上げてる部員から点々と離れている部員たちに顔を向け怒鳴り散らす。 びくっ!と一同が身を竦ませる。 「ちちち、ちがいます!あ、当てるつもりじゃなかったんです!た、ただキャ、キャプテンがあ!」 「なあ!?お、おい!」 「あ゛ぁ?」 胸倉をつかまれて目じりに涙を見せ始めた部員の言葉に、反応した部員を灰峪が睨む。彼がキャプテンなのだろう。 手を離してそいつのもとへ歩み寄る。開放された部員は腰を抜かしたようで、その場にへたりこんでしまった。 「いいいいいやちがうんです!ちょっとしたイタズラっていうか!い、イタズラっていうか!?ノックするとき後ろに怖いものがいたらボール逸らすこともないだろうし!だ、だからそのっ!ちょっとした練習の工夫っていうか!まさか当たるなんて思わなかったし!」 後じさりながら両手を胸の前でぶんぶん振り、顔を冷や汗で濡らしてキャプテンは弁解する。他の部員もゆっくり遠ざかっている。 彼がノックでボールを打っていたとき、校門へ向かう白雉嘉祥の姿が目に入った。 『黒龍』と恐れられるその男をキャプテンは部員たちに示し、わざとそちらのほうばかりへ打った。ボールをそらせば彼に当たる。 そういう危機感を持たして冗談半分にノックをしていたのだ。しょっちゅうトンネルするほど部員たちは下手ではないし、逸らしたとしても迫るボールに気付かないこともないだろう。 しかし 必死でボールを獲る部員たちがすこし可笑しくて、ついつい力を入れていたのだろう。 会心のミートが出てしまった。 名前そのものの勢い、弾丸ライナーだ。無論、部員はグローブにかすらせることも出来なかった。 試合で出したならノーバウンドで外壁に当たったであろう。 いろいろタイミングが悪かったのだ。 それが当たったのだ。 無駄に威力を持ち、無駄にコントロールの良い、ライナーが。 嘉祥がこの時間帯までいたのも運が悪ければ、灰峪の目に届いていたのも悪かった。嘉祥に当たっただけなら、気の良い彼はおそらく謝罪ひとつで許しただろう。わざとというわけではないのだから。 しかし灰峪は許さなかった。わざとじゃなかろうが狙っていて結果、当てたのだ。その行いが沸点の低い彼を沸騰させていた。 「硬球ぶつけといていいわけしてんじゃねえよ!」 助けを求めるように弁解しながら後じさりつづけるキャプテンを、彼は容赦なく殴り飛ばした。 「ふぎゃ!」 鼻の潰れる感触が、殴った当人も殴られた当人にもわかった。そのままキャプテンはどてーんと校庭に沈む。 「ぎゃーーーーーー!!」 「キャ、キャプテンがやられたああぁああ!」 「経を唱えろぉ!」 「いや死んでねえって!」 「南無三!」 「それは経じゃねえぞ!」 「いいから逃げろお!」 「き、キャプテンを置いてか!?」 「もともとその人のせいじゃん!」 「お、おい!そりゃひどいぞお前らぁ!」 置き去りにされる鼻つぶれのキャプテンは無視して灰峪が暴れ始める。 打ったヤツが悪けりゃボール取れなかったヤツも悪い。とりあえず野球部全員、悪い。 無茶な理由で、道理よりも感情で拳をふるう彼は、なんとも不良の鏡であった。 これでも理不尽に友人を傷つけられて怒っているのだ。 阿鼻叫喚のなか、野球部員に襲い掛かる灰峪はさながら阿修羅のようである。 「てめえら全員ブッ殺す!」 眇められた両目に怒りに歪んだ口の凶悪な表情、ドス黒い猛獣の唸りのごとく声はありきたりな脅し文句がやけに似合っていた。 「ぶっ!」 手始めに腰を抜かしたままの部員を蹴り飛ばし、 「ふぐう!」 置き去りにされたキャプテンの背を踏み潰して助走をつけ、逃げ出した野球部員を皆殺しに向かった。 意識を失っていたのは数分か、およそ五分と経っていなかっただろう。 嘉祥の意識がもどると、すこし離れたところにぼんやりと硬球が見えた。 ああ、・・・あれが、当たったのか・・・・・・・。 そういえば前に、ボールに当たりそうになったことがあったっけ・・・・・・・。あの時は灰峪のお陰で事なきを得たけど。 鈍い痛みを左頬に感じた。それの影響で、頭が揺れるような鈍痛にも顔をしかめて起き上がる。 「・・・・いっつ」 手をつきゆっくり上体を起こして、足を地に着けて立ち上がる。手をかすかに左頬に触れる。まだ腫れてはいないようだった。 歯は、抜けてない、な・・・・。 「ぎゃーーーーー!」 「ごめんなさいごめんなさい!」 「許してくださいお願いしますぅ!」 「う、うぉ、よ、酔うー!」 ぼやけた聴覚に悲鳴が届いてきた。 そちらに目をやれば、 「・・・・・・・なにをやってるんだあいつは」 以前、硬球から助けてくれた友人が暴れていた。野球部員の一人の後ろ襟を片手でつかみ振り回している。 なんて腕力だ。だがちょっと無理しているようでさすがに息を上げていた。 「おふっ!」 「がふっ!」 その振り回してる部員の足に当たって二名が倒れ伏す。周囲を見渡せば、野球部の屍が累々とそこらに散らばっていた。 ・・・これ、灰峪がやったのか? 理由はわからないがとにかく止めなくては。 そう思って駆け寄ったら、 「おおりゃあ!」 「うわあ!」 「な!?」 灰峪が振り回してた部員をこちらに投げ飛ばしてきた。 「うわ!」 視界がユニフォームで覆いかぶさる。受け止められない衝撃が上半身にぶつかった。 嘉祥はせっかく立ったのにまたダズーン、と倒れてしまった。今度はふたりで。 「しゃあ!どうだコラあ!」 肩で息をしながら灰峪が吼えた。 野球部にプラスして嘉祥も屍に加わった。 「どうだじゃないだろ・・・・・」 とはいえまた気を失うわけにもいかない。可哀想だが乗っかってる部員をどかしてなんとか立ち上がる。 「う、うぅ・・」 苦痛に唸る部員をどかすときに見えたが、その頬に殴り傷があった。 ・・・・灰峪か。 「あれ、なんだ、白雉じゃねえか。近寄ってくるから、部員の一人かと思ったぜ」 拳に血を滲ませて灰峪は眼つき悪く言う。すこしだけ息切れしていた。 だからこっちに投げたわけだ。 「ふー、・・・大丈夫かよお前。意識もどったんなら早ぇとこ保健室に行け」 「心配してくれるなら攻撃するなよ」 「うるせえ。間違えたんだ」 なぜか嘉祥を睨む。あれだけ暴れたのにまだ気が治まらないというのか。 灰峪はそれだけ言ってから、倒れた仲間を労わり話しかけていた最後のひとりの胸倉を左手でつかんだ。 「ひっ!」 「おいよせ」 嘉祥は胸倉をつかんでる灰峪の手首をつかむ。 なにが理由で怒ってるのかわからないが、もう充分だろう。十数名の野球部員は、胸倉をつかまれてる彼を残して全員倒れていた。 たぶん、みんな意識はあるのだろうが痛みで起き上がれなかったり、起き上がらなかったりしてるんだろう。何度も殴られてはたまらないから。 見れば灰峪につかまれてる彼もわき腹に靴痕がいくつかついていた。何度か蹴られたのだ。よくよく見るとそれは波線の並んだ上履きの痕である。 ・・・・・なんで上履き? 「どけよ。邪魔すんな」 灰峪の足元へ視線をやっていた嘉祥にうっとうしげな声が降ってきて、彼は顔を上げる。灰峪は眼つきを鋭くし声を低くし、嘉祥を追い払おうと顎をふる。 「こいつらてめぇに、当てるつもりじゃねえとはいえ狙ってボール打ってやがったんだ」 「当てる気はなかったんだろ。じゃあ、いいじゃないか。大体もう充分だ。すでにやりすぎてる」 「・・・・あ゛ぁ゛?」 灰峪の胸倉をつかむ手に力が入った。 「ひぃ!」 部員が悲鳴をもらした。 無理もない。可哀想に彼は最後まで残ったお陰で、『黒龍一派』に挟まれてしまったのだから。 嘉祥はその手首をギリッ・・・と痕がつくぐらい強くにぎった。 「てめえ白雉・・・・!お人好しも大概にしろよこらぁ・・・!」 「お前はその短気を大概にしたらどうだ」 「あんだと!?」 「ひ、ひぃいいい!」 もはや野球部員の存在は忘れられ、灰峪は完全にその悪い眼つきを眇めて嘉祥を脅していた。嘉祥と会って軟化したとはいえ、興奮すればやっぱり不良。いまの灰峪は腹の飢えた猛獣である。 対する嘉祥もつかむ手を緩めず、眼を細めて眉間にしわを寄せ灰峪の視線と真っ向に対峙していた。 嘉祥は基本、平和主義だがいまの灰峪は言葉じゃ止まらない。つきあいからそれがわかってるため挑発をしたのだ。もはや力づくじゃなきゃ止まらない。 いつも呆としてる割にこういうときはなんとも頑強な度胸である。灰峪の友人をやってるだけはある。『黒龍』という異名はあながち大袈裟ではないのかもしれない。 パッと部員の胸倉から灰峪の手が離された。 「わっ!」 彼がその場に尻もりをつくと同時。嘉祥も手を緩めた。 直後、 すでに振りかぶっていた灰峪の右拳が嘉祥の頬を貫いた。 「がっ!」 ボールが当たったのと同じ左頬である。 『灰峪VS野球部員』が終わり、『灰峪VS嘉祥』のラウンドが始まった瞬間であった。 灰峪が殴り嘉祥が殴り、嘉祥が殴り嘉祥が殴られ。灰峪が殴り灰峪が殴る。 嘉祥が蹴り灰峪が蹴り、嘉祥が蹴られる。 灰峪が頬をつねり嘉祥が頬をつねり、引っ張り合い。 そのままつねり合ってのクロスカウンターを打ち合い、嘉祥のほうだけ届かない。 ケンカの腕はやはり灰峪のほうが上のようだ。 一方的ともいえないが手数はどう見ても灰峪のほうが上回っていた。互角だったのは頬のつねり合いぐらい。 そうこうしてるうちに教師が数人がかりでやってきて。なんとか止めようとするものの危なくて近づけない。 「おい!やめんかお前らあ!」 「そうよ!いい加減にしなさい!」 「るせえ!だまってろ!」 「こら灰峪」 ごすっ。 「先生に向かってなんて口の利き方をするんだ」 嘉祥のチョップが灰峪の脳天にめり込んでいた。 「て、めえ白雉コラあ!」 灰峪は嘉祥の鼻をつまみあげる。 「あんな言い方はいかん。俺たちを止めようとしてくれてるんだぞ」 「当人が鼻声でなに言ってんだ!」 鼻を摘まれながら説教する嘉祥とそれをツッコむ灰峪。 まぬけな図であった。もう不良のケンカというより子供のケンカである。とはいえ双方、制服は土にまみれて顔は殴り傷と血がところどころに滲んでいた。口だってふたりとも切れている。 「おいちょっとお前ら手伝えっ!」 仕方ないので先生方は遠巻きに見ていた生徒を使う。 グラウンドで部活に励んでいた生徒たちは近寄っても遠巻きに見ているだけで恐ろしくて止めようとするものはいなかった。『黒龍一派』のふたりがケンカしているのを誰が止めに入れるというのか。 しかし教師に言われたのを合図に動き出し、大人数でなんとか二人を引き離し、騒動も治め。二人もなんとか治めて、生徒指導室へ引っ張っていく。 嘉祥の弟、嘉禄がその騒動を知ったのは二人が指導を受けて全て治まった後である。 この日、サッカー部は校外でランニングに励んでいたからだった。 「お前らなあ、ありゃ停学もんだぞ」 「ちょっと待てよ!」 「・・・そうですか」 「納得してんなおい!俺はともかく白雉は悪くねーっつてんだろ!てめーの耳はロバの耳か!!」 「関係ないぞ・・・それ」 嘉祥は冷静にツッコんだ。馬耳東風と言いたかったのかもしれない。 「まあ、話を聞けば確かに灰峪がやりすぎただけだしな。とりあえずお前は三日ぐらいの謹慎じゃないか」 「白雉はなんにもねーんだろうな!」 「おい灰峪」 「ふむ、これから残ってる先生方で緊急の職員会議はするがお咎めはないだろう。だが、なんにもないってのもな」 「あ゛ぁ・・・・!?てめえ、ちったあ生徒守ろうって気はねーのかよ!」 「不良のお前が言うことじゃないぞ」 嘉祥はまたもツッコむ。さっきから彼は反論をしない。 「冷静にツッコんでねぇでお前も弁解しやがれ!」 「あー、・・あの、じゃあ、野球部の手伝いとか・・・・迷惑かけたし」 「・・・・・・弁解じゃねーだろそれ」 「白雉がそう言うならなあ。ま、話はわかったし処分はすぐに報せるから。とりあえず保健室に行ってこい」 そうして指導室を追い出され保健室にむかう二人。 灰峪は帰りたかったが、嘉祥の処分が気になったのでとりあえずヒマつぶしに保健室に行ったのである。 「俺のこと庇うぐらいなら、ケンカするなよ」 保健室に向かいながら嘉祥が話しかけた。 「っせーなあ。てめえはムカつかねーのかよ」 「わざとじゃないならいいじゃないか」 「あー、そーかよ。ケッ」 「それより宿題は終わったのか?」 「あっ、そーだ!もうてめっ、手伝え!教室行くぞ!そんで保健室で終わるまで手伝え!」 「なんでそうなるんだ・・・」 「お前がボールなんかに当たんのがわりーんだ」 「ひどい理由だな」 嘉祥はキズついた無表情のままそう言って教室へ方向転換する。灰峪もそっちへ向かう。 ボロボロの二人はいつもより数倍も近寄りがたかった。 宿題を持って保健室へ行くと手当てを受けていた野球部員と遭遇。傷はそれほどひどいものでもなかったようだ。スポーツマン相手ということで灰峪も手加減したんだろう。多分。 『す、すいませんでしたー!!』 彼らは直角九十度で礼をして逃げるように帰っていった。いや、実際ふたりが保健室にきたらすぐに礼をして逃げていったのだが。 どうにも嘉祥は悪い気がした。 被害者は向こうなのにな。 けれど灰峪は平然としていた。彼は野球部に対しては微塵も悪いと思ってないらしい。 手当てを受け、保健室で宿題をしながら知らされた処分は、灰峪はさっきの通り三日間の謹慎処分。 嘉祥は今日を含めて、灰峪が謹慎する日のグラウンド整備だそうだ。つまり四日間である。まあボランティアみたいなものか。 そんな些細な処分でも灰峪は不満らしく悪態をついていた。 「もとはお前が悪いんだぞ」 「うっせえ!野球部が悪ぃんだよ!」 さっきは嘉祥が悪いと言っていたのに。なんにせよ自分が悪いということは思っていないようである。 ふたりは宿題を終わらせてグラウンドへ向かった。灰峪も手伝ってくれるらしい。 なんだかんだ責任は感じているのかもしれない。 トンボを担ぐ灰峪。 トンボを持ち、腫れた左頬に冷シップを貼った嘉祥。 無論ふたりとも体中ボロボロで、絆創膏が貼られたり痣があったり口元には血が滲んでいたり、制服は土ぼこりで汚れてたり。 そんなふたりはこれからどこかの高校に仕返しにでも行くように見えるのだった。 辺りはもう薄暗くなっていた。校庭にはどの部活も、生徒も姿が見えない。校舎も明かりが点いてるのは職員室ぐらい。 灰峪と嘉祥は離れてグラウンドを均し始めた。 すると薄暗闇の中、嘉祥のほうへ駆け寄る人影があった。 「兄貴!」 「・・・?嘉禄?」 サッカー部はすでに終わっており、彼は一人で兄を待っていた。ランニングのあと、騒動の一部始終を見ていた生徒から聞いたのだ。 心配になってつい待っていた。気になるのはその処遇である。 兄に駆け寄った嘉禄はまず、その相貌にひいた。 「・・・・うっわ、ひっでえな・・・・・」 「・・・左頬以外は灰峪にやられたんだけどな・・・・・・」 「その左頬がひでえよ」 実際はボール以外にも左頬は、灰峪から殴られていたが。 腫れあがった左頬はそのまま左目を持ち上げて、常時ほそめられている。 はっきり言ってかなり怖い。 全面腫れているのならギャグにもなるが、反面だけ腫れて目が細められている様はまさにケンカ後の不良そのものだ。 右頬もダメージはあるものの、絆創膏が貼ってあるくらいで腫れるほどではなかった。 その原因の一端である灰峪はすこし離れたとこで、トンボを片手でテキトーに押していた。やる気がまったく見られない。 「つか、なんでトンボ持ってんだよ?」 嘉禄は不満そうに、兄の手にあるそれに目をやった。予想はついたがそれでも訊く。トンボの使い道などひとつだ。 「ああ、それはな」 そしてそれが処罰だということを嘉祥は話す。 予想していたとはいえ、嘉禄は怒りに火が点くのをどうしようもなかった。 「なんでだよ。兄貴は悪くねーんだろ?おかしいじゃねーか!」 「まあ・・・・俺もそう思うけど。野球部の人たちボロボロで可哀想だったしな、・・・・このくらい大したことじゃないから」 その野球部と同じくボロボロでよく言うものである。 言いながら嘉祥はグラウンド整備を再開する。自然、嘉禄はそれについてく形になって言い募る。 「おいよせよ!もう、うちに帰れって!おい兄貴!」 「あ、嘉禄。悪いけど先に帰ってみんなに夕ご飯ちょっと遅れるって言っといてくれないか」 彼ら貧乏大家族に携帯電話などという現代機器は存在しない。情報は大概にして顔をあわせて通じられる。 「てめーで言えばいいだろ!」 「そう言うな。俺はこれが終わらなきゃ帰れないんだ」 「じゃあ俺がやっから兄貴は帰れよ!」 「いいよ。俺がやらないと意味ないだろ」 「・・・・・・・っ・・・んで、だよ・・・・!」 嘉禄は兄の肩を掴んだ。 奥歯を噛みしめ、目に力が入る。薄暗闇で彼は嘉祥を睨んでいた。 「・・・・?・・・なに怒ってるんだ・・・・・・?」 細められた左目のまま、きょとんとする。『黒龍』の嘉祥しか知らないものが見ればそれはどこか挑発してるか脅してるかのように見えるかもしれない。が、兄弟である嘉禄はもちろん、それが本当にわからないからそういう顔をしてるのだとわかる。 それが苛立たせた。 言いたかった。怒鳴りたかった。 けれど、言ってもしょうがないことを言って兄を困らせるのが憚れてそれを抑えこんだ。代わりに違うことを怒鳴る。 「・・・・・っ・・、・・・・俺はメシ作れねーんだよこのバカ!」 「・・・知ってるぞ?」 「うるせえ!あーもうくそっ!!」 嘉禄は肩から手を離してグラウンドを蹴った。 「おい嘉禄。せっかく均してるのに」 「うっせえ!くそ!テキトーなとこで切り上げて早く帰ってこいよ!じゃあな!」 そう言うや否や嘉禄は校門方向へ走って行ってしまった。途中で、待っていたところに置いといたスポーツバッグをひったくって肩に掛け校門を抜けた。苛立たしくて早いとこ去ってしまいたかったようである。 「あ、ああ。暗いから気をつけろよ・・・」 弟に届いてない挨拶を言って、嘉祥はしばらく呆とした。 何をあんなに怒ってたんだろう。いつもノリで怒るような弟だが、今のはそれとは明らかに違っていた。 ・・・腹、空いてたのかな・・・・・・。 早くご飯にありつきたかったのかもしれない。 ・・・・・悪いことしたな。 嘉祥は一家を預かる身上、申し訳ない気持ちで弟を慮った。 なんとも弟思いの兄ではある。 しかし彼が怒っていたのは嘉祥自身にではないことをわかっていないあたり、やはりどこかぬけていた。 「なんだまたケンカかよ」 嘉禄を含めて、家で待ってる家族にご飯を作るために早く終わらそうと、外に出さずに内面だけで気合を入れると、灰峪が話しかけてきた。 声のしたほうを向くと、 「・・・なんで煙草吸ってるんだ」 薄暗闇の中、離れたところにある人影の口元が蛍の光のように赤く灯っていた。 「どうせ停学じゃねーか。いいだろ別に」 口元から煙草をはなし、片手でだらしなくぶらつかせる。赤い蛍が前後に舞った。 「せめて学校外で吸ったらどうだ。職員室の明かりは点いてるぞ」 「ほっとけ。職員室は俺のうしろだ。見えてねえよ」 確かに灰峪は職員室に背を向けていた。 「あーお前こっちくんなよ。ただでさえ悪くなってる顔がそれに加えて色も悪い顔になんぞ」 「・・・お前がやったんだけどな」 「野球部だ」 キッパリと言い放ち、もう一度口元に戻して煙草を吸う。蛍が一瞬、力強く光った。 そして深く長い吐息が副流煙とともに吐き出される。 「ふうー・・・・・、っし。じゃ、テキトーに終わらすか」 「校庭に捨てるなよ、それ」 「ケッ。それより校舎に捨てて燃やしてやりてえ」 嘉祥がそのセリフを聞いて、薄暗闇の向こうでトンボを構えた。 「・・・やらねえよ」 「そうか」 二人はグラウンド整備にもどった。 嘉禄は暗い家路を走りながら眉間にしわを寄せ始めていた。 今に始まったことではない。こんな気持ちを感じることは今までにも多々あった。 「・・・・くそ・・・!」 なんだってあの兄貴はよぉ・・・・! 前方を睨んで、ボスン、ボスンとバッグを揺らしながらさらに加速した。 中学のとき、サッカー部に入りたいと言う俺をあっさり受け入れた。高校で続けることにだって何も言わない。 少ねーメシなんて今更なのに、少しでもそれが減るのを兄貴がどれだけ気にしているか。 手伝ってやりたいとは思う。だが自分の料理の腕は壊滅的だ。 『料理のできる才能』という言い方をするとして、そうすると彼が持ってるのは間違いなく『料理のできない才能』だった。 それに兄貴は積極的に家事に参加することをよしとしない。 あまり手伝おうとすると、 「ごめんな・・・・・・手伝わせちゃって・・・なにも考えずに遊びたいだろうけど・・・・・・」 とかなんとかぐずぐず言い出して酷く哀しげになるのだ。 どうしろってんだよ。 昔から嘉禄は兄に負い目を感じていた。 いつもは忘れてるけど、ふとしたことで蘇る。 年齢はひとつしか違わないのに、家事一切を取り仕切って家族の面倒をみている兄に。嘉禄は申し訳ない気持ちを抱いていた。 ふとしたことで蘇るそれは、だけどどうしようもない。家族にぶつけるわけにいかないし。抱えてるしかない。 いつしかそれに慣れていたけど。それでも蘇ることがある。 今回は、抱えてることもできそうになかった。 「なんで兄貴が罰うけなきゃなんねえんだよ!」 嘉禄は速度を落として、タイミングをはかり、街灯の下に転がってる小石を思いっきり蹴った。嘉禄の背中でスポーツバッグが大きく跳ねる。 勢いよく弾かれたそれは闇の奥へ消えていく。 「くそお!」 ガィンッ!と鈍い金属音が響く。今度はそばの街灯を蹴り始めた。さらに続けてガンガンと容赦がない。 灯っている頭の部分がかすかに揺れる。それにあわせて肩にバッグを掛ける嘉禄の影もかすかに揺れた。 「ふざけんじゃねえよコラあ!」 ガンッッ!とどうしようもない怒りを街灯にぶつける。 そしてゆっくり足を持ち上げ、力を込める。 「おらあ!」 がいーん・・・・・・!・・・・・・・・・・・。 最後の蹴りを叩き込まれた街灯は鈍く音を響かせた。 「・・・はっ、・・・・・・はっ、・・・・・・はっ、・・・・・・・」 規則正しく息をあげて、嘉禄は街灯の下しばしたたずんだ。蹴っていた足裏が鈍く痺れている。 灰峪が悪いとは思わない。 むしろよくやったと思うくらいだ。当てるつもりじゃなかったが、野球部は狙っていたという話だ。その場にいたら自分も殴りかかっていたかもしれない。ただしその場合はサッカー部の連中が必死で止めただろうが。 嘉禄は灰峪と同じく野球部が悪いと思う。 なにが黒龍だ。ふざけやがって。あんな人畜無害なヤツになに言ってやがる。 彼は兄がそう呼ばれるのを嫌っていた。そんな呼び名とはとても似つかわなかったから。 それを知っていてからかうクラスメイトはまだいい。けれど今はそれも許せそうにない。いや、許さない。 このとき嘉禄の顔はすでに眉間にしわを何重にもよせ、目元を暗く鈍く光らせ、般若の形相となっていた。 街灯のもとで照らされていたその顔は、通り魔に出会うよりも恐ろしいことだろう。 この場に誰も通りかからなかったのは、人知れない幸福であった。 通りかかったところで素早く通り過ぎるか、Uターンするのがオチであっただろうが。 野球部が悪いと思っても、彼らにはすでに灰峪が制裁を加えていた。 兄貴に罰を与えた教師にあたったって仕方ない。あれぐらいで済んだのには、感謝をしてもいいくらいだ。 素直に罰を受け入れる兄貴にあたったって仕方ない。兄貴は何も悪くないのだから。けれど何も悪くないのに罰を受け入れる兄貴が腹立たしいのも仕方ない。手伝わせてもくれないのが腹立たしいのも仕方ない。だけど兄貴にあたったってやっぱり仕方ない。 兄貴に手伝うのを許されず、料理もできない自分が腹立たしい。けど自分にあたったって仕方ない。 どうすればいいというんだ。グレたところで仕方はない。 嘉禄の怒りは出所を失っていた。 それが向けられたのは全く以って無関係な小石と街灯ぐらいである。 そのままの顔で帰宅すると、嘉祥と居候のハウスダスト以外の家人がいた。 「あーおかえりー禄ちゃん!」 「・・・・・あぁ」 明るく出迎えた妹の寛和に、低く獰猛に嘉禄は返した。 眉を怒りに寄せたまま、自分でも少し意外だった。凶悪な声が出ることに。 「え・・・どう、・・したの?」 いつもと全く違う兄の様子に、寛和は途端に表情を不安に曇らせた。子どもである分、他人の感情には人一倍敏感だった。なにより女の子らしく、この子は物騒なことは苦手だった。 「別に」 なるべくこの獰猛な声を聞かせないように短く返す。聞かせるだけ怯えさせると判断したのだ。 「え、でも。あ、禄ちゃん」 構わず振り切ろうとすると寛和が嘉禄のバッグをつかんだ。 すこしだけ引っ張られる力を肩に感じた嘉禄はそちらを見る。 「あっ・・・」 そのつもりはなかったものの、今の嘉禄の表情で見られれば睨まれたも同然。その視線に射すくめられて寛和はバッグから手を離した。 「ご、ごめんな・・・さい」 泣きそうにうつむいてその場に寛和は立ち尽くした。 その姿を嘉禄は見る。自分の腰あたりにある妹のつむじ。いつも元気なツインテールはしょぼくれたように見えた。 怒っているものの、どこか今の嘉禄は冷静だった。 『悪ぃ』 『謝んな』 『別にお前のせいじゃねえよ』 『気にすんな』 嘉禄は何か慰めようと思ったものの、何も口にはしなかった。今の自分が何を言っても慰めにならないと思ったのだ。 だから放っといて嘉禄は自分の部屋に向かった。とうぜん寛和からは離れる。 寛和は廊下を見つめながら、視界に入っていたバッグを下げている嘉禄の足が遠ざかっていくのを見た。つられるように顔を上げて次兄の姿を追う。見えるのは遠ざかる兄の背中。 それだけで末妹は耐え切れなくなった。 「うぇ、・・・・うぇ〜・・・・・ひっく、・・うあぁぁああ〜ん」 寛和は上を向いて静かに泣き出してしまった。 よくわからないけど嘉禄が怖くて、その嘉禄を怒らせてしまったようで。そしてそれがすごく悪いような気がして。何も言わないで離れていくのが、それを示してるようでつらくて。耐えられなくて泣き出してしまった。 すごく怖い。 兄の表情が。視線が。発する声が。 そして、何も言ってくれずに妹の自分から離れていくことが。 突然、妹が泣き出したので嘉禄はちょっと戸惑った。寛和のほうを見て廊下でしばし立ち止まる。 今度ばかりは慰めようかと般若の形相で逡巡してると、寛和の泣き声を呼び水に残りの家族二人が顔を出してきた。 「寛和?」 「どうしたんですか一体?」 嘉禄の前に、弟である嘉元と嘉吉が出てきた。 「・・兄さん・・・・?・・・・・・どうしたんですか」 「うわ・・・・なに。寛和がなんかしたの?」 嘉吉はおそるおそる鬼のような次兄の横を通り過ぎながら言った。泣いている妹のそばによって頭をなでる。 「うぁああああん・・・!・・ひっく、・・・ひっ・・・うああぁああ〜ん!」 寛和は安心したようで、なぐさめてくれる兄に抱きついてさらに泣き出した。 嘉元は驚きながら兄を見ていた。 いつになく怒っている。しかも半端じゃなく。眉間のしわが深く刻まれていて、いつもそういう顔をしているかのようになっている。 いつもの、どこか快活な怒りとは違った陰鬱な黒い怒りの表情。 その獰猛な顔つきはサマになっていた。 場違いではあったが、やはりこの兄は怒ってるのが似合うのだなと思った。 一瞬どこの不良かとも思いましたが・・・。 「寛和に何したんですか兄さん?」 何をされてなくともあの顔で睨まれればそれだけで泣くだろう。と嘉元は思ってたものの一応訊いてみる。 「あ゛ぁ゛?」 獣が唸ったように嘉元を睨んだ。眉間のしわがさらに寄りかすかに顎を引いて頬を引きつらせ、眼つきを鋭く細くする。 「な、なんですか」 なんて迫力。メンチを切る、というのはこういうことをいうのだろうか。兄弟といえどもさすがに恐ろしい。 「・・・・・・・」 そのままの顔で無言の嘉禄。寛和の泣き声が響く中で、いやな緊張感が漂う。嘉吉の顔もこわばっている。 嘉元の言葉にイラッときたものの、嘉禄は確かに寛和が泣いてるのは自分のせいだと謙虚に考え直した。 「・・・なんでもねえ」 「え。あ、兄さん」 嘉禄は奥の部屋へ向かう。メガネの弟の横を通り過ぎる際、長兄からの伝言を言っておいた。 「兄貴は遅くなるってよ。・・・・・くそっ」 思い出しただけで悪態がもれた。腹の奥底が煮えたぎっていて仕方がなかった。 そうして意外にも静かな足取りで部屋の方へ嘉禄は消えていった。 その後ろ姿が見えなくなると妹をなぐさめながら末弟がつぶやいた。 「・・・めずらしいね」 「?なにがですか?」 「中兄があんなふうに怒ってるの」 「え・・・ああ、そうですね・・・・。グレたんでしょうか」 「なんでさ」 「う〜ん・・・・・お腹空いてるから、とか」 「なにそれ・・・いまさらじゃんか」 育ち盛りで貧乏な彼らは、空腹など慣れたものである。 寛和はもう泣き声はおさまっていたものの、しゃくりあげながら嘉吉の胸に顔をうずめて頭をなでられていた。 顔をぐしゃぐしゃにしながら、今はただここにはいない長兄が恋しかった。そしてわけはわからずとも嘉禄に無性に謝りたかった。それでもとにもどってほしかった。 兄の胸でぐずりながら寛和は、いつもの明るい次兄の姿を思い描いていた。 ・・・・・禄・・ちゃん・・・・・・・・。 寛和は、あんな嘉禄はとてもイヤだった。 そして帰ってきた嘉祥に甘えようとしたものの、怪我だらけのその姿がすごく痛そうで寛和はすごくつらくなった。シップの貼られた左頬がとくに痛そうだった。 だからまた泣いてしまった。 「う・・・・・うぁあああ〜ん」 「か、寛和!?なんで俺を見ただけで泣くんだ!?」 「兄さん・・・・泣かせますよその姿は」 「いやそんな感動的な姿じゃないから小兄」 学校では無表情の嘉祥も、家に帰った途端(とくに寛和がからむと)表情豊かなものである。 アルも帰ってきていつもより遅めであまりに暗い雰囲気の夕食が終わると、嘉禄は家にいるのが嫌で外に出た。 空気がとても悪いその日の白雉家の食卓。その原因が嘉禄にあるのは一目瞭然なものの、ケンカをしたという怪我だらけの嘉祥の相手は嘉禄ではないという。では何を怒っているのか。その理由を嘉禄がひとりになるというので、事情聴取にアルはそのあとを追った。 「ついてくんな外国人のくせに!」 「が、外国人は関係ないでしょう!日本人ならよかったんですか!」 アルが追ってくるので嘉禄はまいてやろうと走った。そしたらムリしながらもアルはついてきた。 さすがに一般社会人の彼が現役サッカー部員についてくのはキツイ。 二人は走りながら言い合っている。近所迷惑も甚だしいものである。 「ていうか止まってくださいよ!なんでそんなに怒ってるんですか!」 「うっせえ!金髪になんか言うか!」 「き、金髪って!じゃあ染めればいいんですか!」 「あ゛ぁ゛!?髪の毛染めるような不良社会人になんか教えねえよ!」 「な、なんなんですかいったい!どうしろって言うんですか!じゃあ誰になら教えるんですか!」 「っせえよ!このジョンソンが!けっ!ジョンソン!」 愛称ではなくファミリーネームで呼んで、嘉禄は加速してジョンソンを振り切った。 「に・・・・二回も、・・・言うこと・・・・・・ないじゃ、ないですか・・・・・」 息を切らしながら減速して、アルは立ち止まり壁に手をついた。結局、様々な差別を投げられながら何一つ聞きだすことはできなかった。 ・・・それにしても・・・・・。 いつもは愛称で呼ばれているのに急に苗字で呼ばれるとなにか切なかった。 その後、遅くに帰ってきた嘉禄は疲労ですぐに寝てしまった。 部活でも走ったのに、走り詰めな一日であった。 すこしだけ、ほんの少しだけではあったが、走ったことでイライラは解消して嘉禄は床に就いたのである。 しかし朝にはむしろ増幅していた。 眠ってるうちに記憶が定着したのであろう。昨日のことが、その感情がありありと思い出せた。 目が覚めても消えない怒りであることを、朝から嫌でも認識してしまい、また沸々と溜まっていったのである。 「とまあ、そんなわけで嘉禄は怒ってるみたい」 HRも始まる前の保健室。恵は嘉禄の怒りの理由をそうして締めくくった。 診察椅子には顔の足跡スタンプを洗って落とした菅野。それの近くの別の椅子にそれぞれ座った恵に雄介。少し離れてベッドに山下が座っていた。 ちなみに月澄高校の養護教諭はまだ出勤してきておらず、職員室で鍵を借りて入った。あっさり貸してくれるあたり、部の関係で恵はよく利用するのかもしれない。なんといってもマネージャー様である。 とはいえ菅野もケガというほどのものじゃなく、鼻血も出ていなかったので結局顔を洗って氷嚢でしばらく冷やした程度だった。 「そうか・・・・。いや、大々的に事件扱いにはなってるけど『ほんとはお前の兄貴はなんにも悪くないんだろー』って、からかった後にとりなすつもりだったんだけどな・・・」 菅野がいくぶんしょんぼりして呟いた。めずらしい姿である。 ちなみに東吾と雄介と恵は、登校してから嘉禄の怒りがとんでもないことを知った。昨日のことは知っていたものの、なにもそこまでというほど嘉禄が怒るとは思っていなかったのである。 嘉禄が空気中の微生物でも探すように睨みながら、ボソボソと少なく語っただけで、三人はおおよそ彼の怒りを理解した。 白雉家とは幼なじみの彼らは、嘉禄の兄に対する葛藤は小さい頃から知っていたからである。 登校したクラスメイト達はそれを知らないが、とうぜん嘉禄の異変には気付き、なにがどうしたと周りに聞いて昨日の事情を知っていった。いまの彼に『黒龍』は禁句だということも感じた。 もともと嘉禄が兄をそう呼ばれるのを嫌っているのは周知の事実。クラスメイト達はそれが頂点に達したのだと理解した。実際に事件を起こしてしまっては揶揄にできない。 山下を恐れたのは、その明るさで、朝から話題になっている昨日の事件を嘉禄にふってしまうのではないか。 菅野を恐れたのは、言うまでもない。新聞部であり、今まで先頭に立って彼の兄を話題にからかっていたのだから。 結果的にその恐れは実現しそうになったものの、東吾のキックで事なきを得たのである。 蹴られた菅野は事なくなどなかったが。 「ふ〜ん。そっか。なんや結局スガっちが悪いんやないの」 ベッドに腰掛けて足を揺らしながら事もなげに山下は言った。 「蹴ることないんじゃないかと思うけどね・・・・」 雄介は同情するようにつぶやいて、友を思い浮かべる。 この場にいない救世主のごとく東吾はいま教室でどういう待遇を受けているのか。いーかげん東吾コールは終えているはずだが。 「でも、あのままだったら一発蹴られるだけじゃすまなかったんじゃないかな」 「・・・そんなに怒ってるんだ」 恵はのんびりと言うが、菅野はさすがに背筋が冷たくなった。背筋じゃなくていまは鼻筋を冷やしたいのに・・・。と、つまらないことを菅野は思う。 「あっはっは。今度はスガっちがニュースになったりしてたんやないの?『失言のジャーナリスト。朝の教室に散る』ってな感じで」 新聞部の人間に対し週刊誌の見出しのような文句を言って、山下は笑ったが。菅野は情けない顔でそれを聞いていた。 なんらかの形で嘉禄に謝罪しなければ。 菅野はけっこう落ち込んでいた。その分、まじめに考えていた。そこまで兄を『黒龍』と呼ばれることが嫌だったのかと。 「うーん」 顎に手をやって考える。 どうにかしようと思った。 菅野のケガも大したことないので、養護教諭が登校し保健室に入ってきたその後に彼らは教室にもどった。 教室は相変わらず変わりない雰囲気。 ただ、幾分かは和らいでいたようだった。東吾のお陰と、菅野のケガのお陰である。あの一連の騒動が嘉禄の怒気を削いだようで、周りもすこし安堵していた。 実際は削がれたというか、より内面に押し込まれたわけなのだがそんなこと遠巻きに見ているクラスメイトにはわからない。 本人はじつは殴ろうと思っていた獲物(菅野)を取られて不機嫌度は上がっていたりしたのだ。 東吾は嘉禄のそばにはいたものの、まったく相手にされてなかった。さっきの騒動で勢いづいて、いつも以上に陽気に接しているにも関わらず。 東吾に構わず嘉禄は、教室にもどってきた菅野に気付いた。 「うっ」 目が合った菅野は一瞬怯む。しかし思い直した。 いかん。被害者は俺だが悪いのも俺なんだ。・・・・ん?どっちも俺だ。まあいいか。 とりあえずなんとか顔の筋肉を動かし、ニコォとぎこちなく笑いかけた が、 「あ゛?」 凶悪なツラをさらに歪めて心底嫌そうな顔をされてしまった。 なんだか泣きそうになった。 「・・・なんていうか、怖いしひどい」 「えらい嫌われたなあ」 山下が苦笑いしながら慰めていた。 「さすがに今回は嘉禄も根に持ちそうだね・・」 「そうお?・・・うーん、そうかな〜」 その後ろでは、苦労性の憂慮にのんびり屋が賛同しかねていた。 「なあ嘉禄!今のお前なら雷獣シュートとか出せるんじゃねえか!知ってるか雷獣シュート!木とか倒すんだぜ!今日の部活でやってみたらどうだ!」 「じゃあてめえが木やれ」 「な、こ・・怖ぇこと言うんじゃねえよ!アレ真っ二つとかになるんだぞ!なんだよ!そんなん言うならやんねーよ!」 東吾はナチュラルに脅されていた。 教室の雰囲気が和らいでいたのは間違いなく彼のお陰であった。 嘉禄は相変わらず、そばでうるさい東吾がいたものの窓の外を睨んでいた。 その視線を避けるかのように、普段は見かける小鳥は窓の外にはまったく見かけなかった。 嘉禄の眉間のしわと鈍く光る眼光は、消える様子も衰える様子もなかった。 授業中は例外なく教師を視線で脅し、当てられることはとうぜんなし。チャイムと同時に教室から退散していく先生方を生徒はみんな同情の視線で見送った。 そして休み時間。 教室移動で、道行く廊下を生徒も教師もモーゼのごとく避けていく中を嘉禄は歩いていた。 しかしそのモーゼの嘉禄を避けない者がいた。 それは同じくモーゼであった。 「・・・兄貴」 気付けば嘉祥のクラス前である。 人を寄せ付けない、無表情のどこかに陰気な感じが滲んでいる嘉祥が目の前に立っていた。落ち込んでいるらしい。 兄の左頬は昨日と比べて腫れはひいていたが、シップは貼られたままで痛々しい。それに左目のほうは治ってなくて細められたまま、相対するものに恐怖を与え、ケガをしておいてなお茫漠とした雰囲気をまとっているその様子は確かな風格が感ぜられた。 もはや『黒龍』の名は確固たるものである。 普段から人を寄せ付けない嘉祥だが、今日はそれが顕著であった。 モーゼとモーゼが立ち止まった教室前では誰もが見えない壁に遮られたように、そこを通ることができない。 「なあ、嘉禄」 兄から口を開く。 「なにを・・・そんなに怒ってるんだ?」 昨日、あれからまともに口をきいていない。何を訊いても答えない。理由もわからず、嘉祥は正直まいっていた。 「昨日の夕飯・・・・不味かったかな・・・・」 別にいつもと変わんなかったはずだけど・・・・。 寂しげに顔を曇らせてつぶやく。ケガとあいまって黒龍ならぬ悲哀が覗いた。 嘉祥はやはりどこかぬけている。弟の心を兄は知らない。 ふざけたような兄のセリフが、嘉禄の奥歯を軋ませた。眉間のしわを深く刻ませた。 そのセリフがふざけてないことがわかるのもあって、さらにイラだった。 「てめえにはわかんねえよ!!!」 自分にブレーキをかける間もなく、叫んだ嘉禄は兄の横を通り過ぎた。 怒る相手が違う。 嘉禄は後悔した。その後悔が、顔を嫌悪で歪ませた。 だが、その場の誰がそれをわかっただろうか。 禍々しく怒りに歪んでる顔に、後悔がまじっていることを。 怒る相手が違うと言ったって、誰に怒ればいいのか。 わからない嘉禄はとりあえず、 「ひい!」 「う、うわっ」 通りたくても通れなくて、周囲に集まっていた生徒を視線だけで殺すようにギラリと睨んだ。先輩なんだろうが関係ない。 驚くような速さで後退った生徒をあとに、嘉禄は行ってしまった。 残された嘉祥。 その顔色は見てるほうが不安になるほど暗かった。 しかし話しかけるものはいない。どれだけ落ち込んでいようと黒龍だからである。やはり怖い。というかいつもとはまた違って怖い。 とはいえ嘉祥もずっと突っ立ってはいない。しばらくするとふらふらしながら教室に入り自席に着席した。 それまでのプロセスで、壁に2回、ドア横に1回、机に4回。計7回、ものにぶつかった。 周りは衝突するたびに身をすくませていた。前後不覚な黒龍というのも勘弁してほしいものだ。 とはいえ二人のモーゼが通行止めしていた教室前の廊下は、開通されてまたスムーズに人が流れ出した。 黒龍にも、それに対し怒鳴った弟に対してもみんな深く考えなかった。ただの兄弟ゲンカだろうし関わりたくなかったし。 なにより怖かったし。 それにしても『黒龍』の弟はやはり『黒龍』なのだ。と、みな思ったという。 「どうしたんだよ。今度は兄弟ゲンカ?」 席に嘉祥が着くと、一派のひとり、優等生の橡泰樹が話しかけてきた。 お堅い優等生だというのに一派扱いなのはひとえに彼らと友人だからである。まあ灰峪とケンカができる、という点だけでもそう扱われるのは仕方がないのかもしれない。 「すごく大きな声だったねー。だいじょうぶ?」 その腕にぶらさがってるのがこれまた一派のひとり、黒川たすくである。小柄で愛嬌のある彼は一派の中ではズバ抜けて社交性がある。社交性のある彼がいるのに嘉祥が勘違いされているのは、たすくの言動が不自然な所が多いせいである。そのせいで彼の言動は周りにあまり理解されない。付和雷同な性質のわりに思考回路は人とずれているようだ。 たすくは泰樹の腕から離れて、嘉祥のうしろに回ってその背にのしかかり体重をあずける。軽いので迷惑ではなかった。 ボディスキンシップが過多なのがたすくの特徴である。 「だいじょうぶ・・・じゃない。・・・・・嘉禄、・・・・なんでだ」 自然と下を向き、真夜中のように顔を暗くしてブツブツとつぶやく。すごく怖い。 「祥ー、すごい顔だよ?洗ってきたら?落ちるかもしれないよ」 「汚れじゃないんだよ」 嘉祥のうしろから頬をくっつけるように顔を覗きこむたすくに、泰樹は呆れる。 シップの貼られてる左頬ではなく、右頬にたすくは自分の左頬をくっつけた。 「祥ーおー。元気だしなよっ。くらーいよー?真っ暗だよ?」 「何が原因か知らないがそう暗くならなくてもいいじゃんか。家出するほどの大喧嘩ってわけでもないだろ?」 「いえ・・・っ・・!」 嘉祥は、右頬をたすくとくっつけたまま顔を上げて泰樹を見た。細められた左目が泰樹をとらえ、恐ろしいことを予想したかのように声が裏返っていた。 「いや、だからそれほどのケンカじゃないんだろ?」 「え・・・・いや、わか・・・わからない・・・・・」 嘉祥は涙目になっていた。 「あーちょっとヤスキ!なに祥のこと泣かしてんの!いつからいじめっ子になったの!」 「なってない!べつに泣かしてないだろ!?」 そのとき教室のすみっこがかすかにどよめいた。 「こ、黒龍を泣かした!?い、・・・いったいどんな弱みを握ってるんだ橡は!」 「じゃあ一派の影の龍は橡、ってのは本当なのか?」 「知性的なのが実権にぎってるってのはありえるけど・・・」 「でもそれじゃあたすく君はなんなの?」 「それはやっぱりマスコットじゃない?」 「どういうよ」 「えーと、イメージ戦略?」 「油断させといて、どん!っていう感じか!」 「・・・でも仲良いよね」 「うん、さっきなんか頬くっつけてたよ・・・・・良いなあ」 「あんな度胸、俺にはねえよ。やっぱあいつも只者じゃねえって。きっとすげえ腹黒いんじゃねえか?」 「え〜それもいいな〜。可愛くって腹黒いなんて最高じゃ〜ん」 「や〜ん。だまされた〜い!」 「なんでだよ!女っておかしいよ!」 「そうだ!騙されたいんなら騙してやる!ワターシ、ホーントーハ、イーギリース人ー!」 「でも白雉くんもあれで優しかったりしたらよくない?」 「あ〜良い〜!」 「せめて聞けよお!」 「ヤスキはよく雪彦とケンカしてるよね。なんかアドバイスとかー」 たすくが嘉祥の頭をなでながら泰樹に意見を求めた。黒い龍はされるがままになっている。今の嘉祥の顔色は青を通りこして暗ーい闇のような黒である。『黒龍』という名がある意味で似合っていた。 「あいつとのケンカは後腐れがないんだよ。嘉祥だって昨日したんだろ?でもそれで顔を暗くしてるわけじゃないんだし」 もっともである。灰峪とのケンカなどいまさらだ。なによりケンカの理由が当事者間にあったわけではない。 しかし友人とのケンカは問題ないのに、兄弟とのケンカが堪えるあたりはなんとも嘉祥らしい話である。 「・・・・・家出・・・いや、・・・そんな・・・・・・嘉禄・・・・・いえで・・」 顔を暗黒に染めてぶつぶつ唱えるように呟く姿はもはや不気味そのものである。 泰樹は呆れながらも困った。 たすくは本気で心配した。 「祥ー、元気だそうよっ。そんなんじゃ直る仲も直んないよ」 たすくはうしろから嘉祥に抱きついて顔をのぞきこむ。 「・・・お前がまともなこと言うとなんか不自然だな」 泰樹が失礼な感慨をつぶやいた。そして教室のすみっこがまたもすこし騒がしくなる。 「きゃー!抱きついた!抱きついたよ!『ぎゅっ』てしてるよ!?」 「いやーん!あのふたりどーいう関係!?ねえ!ねえねえ!」 「いたっ!いたいいたい!かっ、肩を叩くなあ!」 「なんつうか、あの情景があんま不自然に見えねえから怖ぇなあ・・・・黒川ってスゲぇ」 「まあ、ほら。その・・・・なんていうか。とりあえず元気だせって」 「やる気ないねヤスキ」 泰樹も励まそうと嘉祥にたどたどしく言葉を紡いだら、嘉祥に抱きついたままのたすくに顔だけ向けられて一蹴されてしまった。 「・・・なんて言ったらいいかわかんないんだよ」 泰樹はいくぶん不満げに正直なところを言った。 頭の堅い泰樹には、アドリブが必要な事柄はとくに苦手だ。心理学を学んだところで、人間関係には上手く利用できそうにない男である。 「とにかく!家出するってわけでもないんだから無駄に悩むなよ」 「あ、・・・・ああ。そう、だよな・・・・・・ごめん」 「謝らんでいい」 不器用な友人の言葉に、顔色は変わらないが嘉祥は思い直す。 そうだ。よくわからないけど、なんとかしないと。・・・嘉禄のこと、みんな心配してるんだ。 「なんとか・・・・しないとな・・・・」 暗い顔色のままに、嘉祥はほんのり決意をする。 行動力なんてほとんどなさそうな男だが、こと家族に関することには誰よりも動く男だった。毎朝各自の弁当を作り、食事を作り家事をこなし家計をやりくりして、時にはバイトをする。事情を知るものは、高校生ながらろくに遊べない彼を憐れみ感嘆するが、本人はただ家族が大事だからしているだけだった。嘉祥を憐れむのは他人ぐらいであり、彼は自身の境遇を憐れむことはなかった。 ただ家族のためだからである。 そんな嘉祥にうしろから抱きついていたたすくは、前に回って机に身を乗り出して嘉祥に顔を寄せた。 「・・・・・・?」 暗い顔に怪訝がすこしだけ混ざる。 たすくは嘉祥のシップの張られた左頬にそっと触れて顔も間近。なでた右手で小さくガッツポーズをつくって言う。 「がんばって嘉祥!応援してるよっ!」 花ひらくような明るさ満点の笑顔が、暗さ満点の顔に光を差す。 「・・・・ん、・・・・・・・ああ」 おだやかに、口角をほんのすこしだけ動かして嘉祥はほほえんだ。 教室のすみっこでは控えめに歓喜の悲鳴が上がっていた。顔が近いしふたりとも笑顔だし。 しかし一派三人の中にそれに気付いたものはいなかった。 「いや・・・あの顔で微笑まれると逆に怖くねえか・・・・・?」 「なあ・・・・女ってわかんねえ・・・・・」 そして同じく教室のすみっこでは控えめに恐怖を囁きあっていた。細められた左目のまま黒龍がほほえんだなんて、彼らには不気味にしか見えなかったのである。 その後、次の休み時間に弟のクラスを訪ねるが、座ったまま一睨みをくれるとあとはどれだけ話しかけても顔をそらし、とりつくしまもない。 「嘉禄・・・・理由を・・・・・・・」 たどたどしいのもあって、話は進まない。もともと話下手な男である。 ちなみに恵や雄介が助け舟を出そうとすると、 「出てくんじゃねえ!」 嘉禄が怒鳴って散らすのでどうにもならない。ふたりはびくっと身を震わせてそのまま悲しげに黙りこむ。 嘉禄は朝よりもさらにあからさまにイラついていた。 重力が増したように周囲の雰囲気が重くなり、クラス中が白雉兄弟から二、三歩と後退っていた。できれば教室から出て行きたいものの、音を立てるのさえ恐ろしくておおっぴらに動けない。 嘉祥は助けようとしてくれた二人に謝罪し礼を言う。その間、東吾が加勢をしようと怒鳴ると、 「おい嘉禄!祥がわざわざクラスに来てんだぞ!てめ」 ドゴオ!と東吾に右ストレートが叩き込まれた。 「えふ!」 視界が横に流れ、上半身が後ろに飛ばされる。踏ん張るひまもなく尻餅をついた。 言葉も途中だというのに容赦がない。嘉禄が恵、雄介に対する扱いとの違いである。 「て・・・・・っ・・!てーなコ、うおおおおお!?」 手の甲で頬を押さえて見上げたその先には、嘉禄の姿ではなく重力に伴い落ちてくる椅子が東吾の目に入った。 「お、おおおおお、あだぁ!」 エビのようにシャカシャカと後退すると机の天板に頭をぶつけた。 同時にさっきまで東吾が転がっていた場所に寸分なく椅子が舞い落ちた。 なんとも暴力的な騒音を響かせて跳ねる。もういちど小さく、バウンドする。その後、着地した椅子は震えながら動きを小さくしていった。 残響音が響いてあたりに広まり、足を上に向けて投擲された椅子は落ち着いた。 そしてそれに倣うように教室内は静まり返る。 椅子を投げたのは無論、嘉禄である。 「おまっ・・!嘉禄てめっ!こらあ!」 その沈黙のなかでも被害者は黙らない。頬を殴られ、尻はジンジンと痛み、椅子を投げられ、後頭部がすこし腫れた東吾はそれでも怯まない。 向かいに立った嘉禄は投げた椅子を取りに東吾のほうへ歩み寄る。 眉間のしわはある程度、減っていた。しかしその眼は眇められている。怒っているのだろうが・・・・だけど、それは何に対してなのか。目の前の東吾に対して、ではないのだろう。いや、何も東吾に対しては、とくに怒ってるわけではない。その発散のとばっちりに遭っただけだ。 人を殴ったあとでも、嘉禄の眉間のしわは減っても消えてはいない。怒りで寄ってるしわが、悩んでるように見てとれた。 殴った後でも、こんな顔をしている嘉禄を東吾は知らない。嘉禄の怒りはいつだってわかりやすいのに。 その顔を見たら 言おうとしていた悪態は出なくなった。 東吾は、嘉禄を見上げながら何も言えなくなってしまった。 「嘉禄」 横から嘉祥が話しかける。 これ以上、東吾に手を出すのを抑止するための呼びかけだったが、必要はなかった。嘉禄は声を無視して椅子を取り席にもどった。 それは本日二度目の行為である。今日の嘉禄の椅子は座る以外の用途が忙しい。 嘉禄が本来の用途で椅子を使うと、ちょうど始業のチャイムが鳴り響く。 「・・・あ」 嘉祥がポツリとつぶやいた。 遅刻だ。 ・・・・・もう、行かないと。 首をめぐらし周りの不安げな視線を見回す。 その最後にすでにコチラを見ていない弟の背中を一瞥して、嘉祥はゆっくり教室を出て行った。 出て行く際、背中に哀愁を漂わせて兄のほうは重く小さいため息をついていた。 弟のほうは背中に苛立ちを背負ってペンケースを潰すようににぎりしめていた。 恵も雄介も東吾も、嘉禄に何か言うことはなかった。山下も菅野も口を出さなかった。 ほかのクラスメイトも何も言わなかった。 みんながみんな、いつもの嘉禄にできるだけ早くもどって欲しかった。 人気者の横暴な態度は、クラスメイトの不興を買うことはなかった。 いつもの嘉禄を知っていたから。彼のお陰でいつも明るいクラスであることを、今このときによく実感していたから。 そんな周囲の願いを、本人は知る由もない。 |