嘉祥は休み時間は無理だと悟った。何度も行っても同じことの繰り返しになるだろう。弟のクラスメイトにも悪い。あんな雰囲気に、自分が行くたびにさせるのは申し訳ない。 だから昼休みになんとかしようと嘉禄を探した。 だけどいない。 教室にはいなかった。たぶん自分を避けたのだろうと理解した。 校庭に出て、グラウンドの片隅に建っているサッカー部の部室へ行ってみた。しかし鍵がかかっていて、ここにはいないことが明白だった。まさかここに閉じこもってるってこともないだろう。 試しにノックしてみたが、とうぜん返事なんてなかった。 昇降口にもどり、一階の廊下を駆けて、端の階段まで行き二階に登り、廊下を駆けて反対側の階段まで行って登る。そうしてつづらに最上階まで上がった。 同じようにして一階までもどる。 道中、だれもが自分を見て避けた。シップの貼られた左頬、細められた片目の効果は大きい。まあ、いつも同じようなものだが。お陰で廊下を走るのに苦労はなかった。 見つからない。 どこを探せばいいかもわからない。 家では顔を合わしても、学校ではそんなに合わすことはなかった。学年が違うのだから当たり前だし、積極的に兄弟に会いに行く理由だってない。 さっき教室に行ったとき、サッカー部の三人に嘉禄のいそうなところを訊いてみたが かんばしい答えは得られなかった。 部室、トイレ、多目的室、踊り場、校庭。 幼なじみの彼らでもそんな回答だった。 「あせらなくてもいいんじゃない?」 恵がゆっくりと訊いた。 「そんなことないでしょ・・・」 雄介が呆れていて 「いつまでも殴られんのはごめんだ」 東吾がぶすったれていた。左頬には殴り傷。嘉祥のよりも小さく腫れてもいなかった。 「・・・ごめん」 「あ、祥兄」 嘉祥は謝って教室をあとにした。 「東吾が殴られるのはいまさらじゃないの?」 「なんだよ!それを言うんじゃねえよ!」 東吾が雄介にツッコまれていた。 嘉祥は歩いて昇降口から校庭に出る。 グラウンドの真ん中をつっきり校門へ向かった。遊んでる生徒たちが嘉祥を避けていくが、本人は気付かない。昨日のことが思い出されて、ズキ、とすこし左頬が痛んだ。 ――――どけよ。邪魔すんな 灰峪の怒りはわかりやすかった。 ――――お人好しも大概にしろよこらぁ・・・! 灰峪は嘉祥のために怒っていた。野球部にボールを当てられた自分のために怒っていた。それが、今度はそれを嘉祥が止めたのを怒った。殴り飛ばしたいのを止められて怒った。そしてたぶん、被害者が加害者を庇ったことに腹を立てて怒っていた。 なんにせよ嘉祥が原因だ。 理解するのが難しいことはない。 けれど、 嘉禄は・・・・・? 弟はどうして怒っているのだろう。 ――――てめえにはわかんねえよ!!! 数時間前の怒鳴り声は鮮明によみがえる。 ほんとうに、わからない。 どうして怒っているのか。でも自分が何かしたのだろうか。昨日、グラウンド整備の話をしたときから怒り出していたけど。 でも、どうしてそれが嘉禄を怒らすことになるのか。ケンカしたことに怒ってるんだろうか? どうして、理由を話してくれないのか。家でも学校でも話してくれない。 思考に耽っていたら、いつしか校門に辿り着いていた。 ここから先はもう学校外。 嘉禄は、ここより向こうにいたりするんだろうか・・・・・。 理由があってここにきたわけじゃない。 むしろどこへ行けばいいかわからなくなって校庭へ出て、立ち止まってもいられなくてここへきた。 見えるのは通学路。いつもは日が傾きかけた下校時に見るその景色は、ずいぶんと明るい印象を受けた。 とうぜん下校する生徒もいなくて、閑散としているのに太陽がまだ高いその風景に、ふと嘉祥は物寂しくなった。 そして長い間その風景を眺めていた。 なんとなく、シップの貼られたその表情は曇っているようだった。 気付くと昼休み終了の鐘が鳴り終わっていた。余韻がそこらに残響している。 「・・・・・あ」 教室に戻らないと。 踵を返し、校庭で遊んでいた生徒たちの後を嘉祥は歩きだした。前方に、騒ぎながら昇降口に向かう生徒たちが目に入る。しっかりと校庭で遊んだらしく、制服のあちこちに砂埃で汚れていた。 なぜかその中に、弟がいるような気がした。 ・・・・そうだ。 嘉祥は知らず、立ち止まって思考した。 嘉禄は、やはりそんなふうにしてるのが似合ってる。 笑って、明るく怒って、騒いで、はしゃいで。 いつも誰かと一緒で、いつもその中心で。いつも楽しげで。昼休みに校庭で遊んで、笑いながら教室にもどる。いま前のほうにいる彼らのような、そういう中にいるのが似合っている。 小さい頃から、弟たちの世話は嘉禄がしていることが多かった。家事にかまけてしまう自分と違ってそうしてくれるのはありがたかった。 まあ、ケンカになることもよくあったから世話していたというより、ただ遊んでいただけなんだろうけど。 だけど、やっぱり嘉禄がいると良かった。 それだけでみんなが明るくなった。 嘉祥は昇降口に吸い込まれていく生徒たちをぼんやりと見つめながら、しっかりと決意する。 放課後に、時間を見計ってサッカー部に行こう。ちゃんと説明してもらおう。 校舎を見上げる。弟が在籍してるクラスのほうを見る。 ・・・・・・嘉禄。 嘉祥は決意をこめてそちらを見ていた。 しかし実際のところ、嘉禄のクラスはそこから2クラスほど横だったりした。 キーン・・・コーン・・・ 「あ」 カーン・・・・コーン・・・・ いつのまにか校庭にひとりぼっちで、授業開始の本鈴が鳴り響いていた。 放課後、嘉祥は嘉禄が逃れようのないタイミングを泰樹とたすくの友人二人に示され、 「やっぱり部活の後だろ。前だと部活を口実に逃げられるかもよ」 「あれだよ!こう、シュートしようとしてる瞬間がいちばん無防備だよ!」 「おまえは嘉祥が何すると思ってんの?」 どちらにしろグラウンド整備があるので嘉祥は一度、家に帰り夕飯の下ごしらえをしてまた学校へ戻ってきた。 野球部は活動を休止しているようで、グラウンドには姿がない。まあ、部員全員がケガをしたわけだし。 戻ってきた時間帯にはどの部活も姿はなかった。夕暮れが嘉祥の姿を赤く染めていた。すでに肩にはトンボがある。 パッと見、もう狂気が感じられるような姿であった。夕焼けで、左頬にシップの貼られた無表情にできた陰影がまた効果を上げている。 嘉祥は活動を終えて着替えをしているサッカー部の部室へ足を踏み入れた。ノックをする。 出迎えたのは、後ろ髪を残して前髪もサイドもまとめて長髪をうしろで束ねているサッカー部の先輩、三年の横田であった。ちょうどドア付近で着替えをしていて半裸であったにも関わらず。 「・・・・どうも」 「うおおおぉおぉぉ!?な、お、・・うぉう!?」 必死で後退った横田は部員を巻き込んで後ろ向きに転倒した。 赤い夕焼けを背に、トンボを担いで、細められた左目に顔に不気味な陰影をつくって佇むその黒龍の姿は、殴りこみにきたかのよう。 サッカー部は嘉禄がいるので嘉祥の内情を知ってるのだが、それでも横田がびびるのも無理ない光景であった。 とくに今は嘉禄とケンカしているので、弟をのしにきたのかと横田は思った。 「・・・横田、何をするんだ」 その下から、巻き込まれたひとり、副部長の竹原が横田の背につぶされながら情緒のこもらない音程で非難した。 「あ、いや悪ぃ・・・」 素直に横田が背中の竹原に謝ると、 「なにすんすか先輩!」 「痛いじゃないっすか!」 「こうなったら先輩、帰りにコーラおごりねっ!」 「ふざけんなてめコラ大畑」 巻き込まれた後輩数人が騒ぎ立て、最後の大畑の発言にだけ反応した横田が彼にだけアイアンクローを喰らわせた。 「ぁいたたたたた!い、いーじゃないっすかそれぐらいー!」 「だまれ。テメーなんかカルピスの原液でも飲んでろ」 「え、か、買ってくれるんですかっ!あぎゃあ!ウソウソウソ!冗談です!冗談だから強くしないで!」 暑苦しい部室内で騒がしいものである。 「先輩!大畑がこのまま一分耐えたらコーラおごりで!」 「おお!どうっすか先輩!大畑ガンバレ!」 「あぁ〜ん?」 巻き込まれた後輩が、べつにコーラ目当てではなく大畑が苦しむのを目的に横田に進言した。 対する横田は楽しげに唇を歪めた。 大雑把な彼らがわざわざ一分なんて数えやしないのである。 しかし、それに乗るのが大畑であった。 「お、おおし!耐え切るぞ!先輩どんとこーあたたたたた!ギブギブ!ムリムリムリ!先輩ムリだって!やっぱムリ!いたいいたいいたい!」 横田は握力を緩める。 「あ、やっぱなし!先輩いまのなし!い、いけそう!いけそうだ!」 再び強める。 「あー!やっぱムリ!先輩ごめん!ムリ!ムーリー!」 「そこら辺にしておけ」 すでに立ち上がり着替えも終わっていた竹原が制止した。 横田はすんなりと大畑の頭から手を離す。 「あー・・・・・」 解放された大畑はしゃがんで唸った。 「うあー・・・頭がー・・・いたーい・・・・・あーたまーがー・・・・」 こめかみを抑えてぶつぶつ呟く。 それを横田も竹原もほっとく。 副部長は訪問者に向き直った。 「嘉禄に用事?」 「・・・ええ」 「おい嘉禄!兄貴がお前に用事だってよ!」 横田が部室の中ほどで着替えを終えていた後輩を呼んだ。 「祥」 「おっきいお兄さん」 嘉禄のそばにいた、着替え途中の東吾と雄介がつぶやいた。 呼ばれたとうの嘉禄は、兄が部室に入ってきたときから今日一日中眇めていた両目に、驚きの色をにじませていた。そばの二人はそれに気付くことはなかったが。 「しっかし話どおりのインパクトだな。確かに怖え。すげぇびびった」 「トンボを担いでるところと夕日を背負ってるところがさらにそれを増幅させてるな。というか横田、お前は早く上を着ろ」 「あの・・・」 ドアの前で興味深く嘉祥を見る二人に、本人が困惑していると、 「嘉禄?」 足早にドアへ歩いていく嘉禄に雄介が呼びかける。すれ違いざまに見えたその双眸はやはり凶悪に眇められていた。 部員たちがその邪気に当てられないよう、狭い部室でも必死で体をよけて道をつくる。嘉禄はここでもモーゼっぷりを発揮していた。 「なんだよそのトンボは」 低く、怒気を孕んだ不穏な音質で兄に問う。その声音だけで部室内が沈黙に支配される。夕日の赤がやけに強く室内に焼き付いていた。 竹原と横田は黙って両脇にどいた。 「グラウンド整備なら昨日やってたじゃねえか」 刺すように嘉祥を睨む。 嘉祥はすこし戸惑った。昨日のあれ以来まともに口を利いてくれなかった弟から、急に詰問されている。 「いや・・・・今日いれてあと三日やるんだよ」 「はあ!!?」 部室内が揃ったようにびくっと身をすくませた。嘉祥もすくませた。 「い、・・言ってなかったか・・・・?」 動揺しながら考える。そういえば、グラウンド整備をするってことしか言ってなかったような・・・。 驚愕に叫んだ弟を前に、嘉祥は昨日のことを思い起こした。 ・・・・ろくに話さなかったしなあ。 「なんだよ・・そりゃ・・・・!」 苦々しく、嘉禄は奥歯を噛みしめ拳をにぎりしめて、眉間にしわを刻み込み今日さんざん人を怯えさせた双眸を強く細めて兄を睨みつけた。 もはや不満は臨界点まできていた。 「か、嘉禄・・・・・?」 嘉祥が弟の視線に怯む。ついトンボを持つ手に力が入る。部室に危険な気配が満ちる。嘉禄の右腕がすっと後ろに下がり、拳には力がこもる。 兄貴を殴ってなんになる。 湧き上がる怒りが抑えられない。右手にこもる力が弱まらない。眉間のしわは取れやしない。殴っても後悔しかしない。 くそ・・・! 目の前には困惑した兄の顔。両脇にはそれぞれ、横田が半裸のまま頭の後ろで手を組んでドア横にもたれかかって、竹原が腕を組んで立っている。 二人とも三年というだけあってか落ち着いてことの経緯を見守っていた。 「嘉ぁああ禄ーーー!!」 不意の叫びに呼ばれた嘉禄だけじゃなく室内の全員がそちらを向いた。 「と、東吾!?」 雄介が朝のときと同じようなリアクションを同じ相手にしていた。 リアクションを向けられた東吾のとった行動も朝と同じだった。 嘉禄に跳び蹴りを喰らわそうと、振り向いた彼の前で東吾は宙を舞っていた。朝と違うのは着替え途中で上がシャツ姿というぐらいか。 その東吾の跳躍は嘉禄を止めるためではあったが、ぶっちゃけ一発ぐらいお見舞いしたかったからである。今日はやられっぱなしだし。 中空の東吾の眼前で、嘉禄の怒りのこもった右拳が鋭く振りかぶられる。凶悪な双眸が見開かれる。 「死、」 嘉禄は突貫してくる右足を頭だけでかわす。東吾が言葉も途中で、あ、と呆気にとられた。 空気を貫いて、嘉禄の、拳にひねりを利かせたコークスクリューが跳んでいる東吾の顎へ斜め下から器用にねじりこまれた。 「はがぉ!」 東吾のセリフは体とともに吹き飛んだ。跳び蹴りのために跳躍した滞空時間と同じぐらい浮いて、どうっ、と汚い床に背をつける。 一発KOであった。 再び部室内を沈黙が支配した。横田が、おお、と表情で感心していた。竹原は無表情だった。嘉祥は呆然としていた。 雄介は、ていうか東吾いま『死ね』って言おうとしてた。と呆れていた。 すでに頭痛から復活していた大畑が、 「お、おいおい嘉禄〜・・・さすがにちょっと・・・」 やんわりいさめようとした。そしたら 「はうっ!」 嘉禄の鈍い眼光にあてられて慌てて顔をそらした。そのままその凶暴な眼つきで狂戦士のようなオーラをまとってこちらに歩み寄ろうとする。 我慢のふたが東吾を殴ったせいで弾け飛んだらしい。怒りがもうもうとその体から湯気のように吹き出ていた。 ちなみに東吾同様、大畑も殴られやすい人種であった。 「ひぃいいいいいぃぃいい!ま、ままま待って嘉禄おちついて深呼吸してやめて助けて!」 ずざざざざっ!と部員たちが顔を恐怖にひきつらせて扇状に間合いをとった。単に逃げただけの間合い取りだった。 大畑はその真ん中で身の危険度をMAXに感じた。 大畑の向かい、嘉禄ではなくその背後のドア横で腕を組んでる副部長がため息をひとつついた。 と、 するととつぜん水面蹴りを、嘉禄の爪先からひっかけるように放ち、一瞬、宙に浮かせた。 「な、!?」 どちゃ、と無様にドアの前でうつぶせに倒れる。 「なにすんだ!副ぶ、」 ちょう、と後ろを睨みながら言う嘉禄の言葉に重ねながら、竹原は部員に言い放った。 「いまだ大畑!のっかれ!みんなもだ!」 戸惑ったのは一瞬。それは嘉禄も大畑も他の部員も同じ。しかし嘉禄が反応するより 大畑のほうが早かったのはそれだけ必死だったからである。 「お、おおおおお!副部長ありがとう!」 礼を言いながら助走して倒れてる東吾の上を跳び、嘉禄の上へボディプレスする大畑。 「ごふっ!?て、めえ大畑うおおおあ!?」 上を睨みかけた嘉禄の視界にはこちらへ突進する部員で埋め尽くされた。東吾がどたどたボコボコと踏まれていた。 「え、うわ!?ちょっと!」 雄介がその波に押されて大畑の上にかぶさった。 「ぬおおおおおおお・・・・!!」 どどどぅ、と抗えない重量が嘉禄の体にのしかかってくる。 「おも、重て、え・・・・・・!」 今日一日怒りに歪んでた眼つきに、苦痛が加わった。東吾に意識があったら、ざまあみろ、と思ったかもしれない。 まあ、足跡で塗りつぶされた本人のほうが憐れではあるのだが。 全員が重なった山の下は腕なんかまったく動かせないし、押しつぶされてるので指すらまともに動かせない。無論、足だって上げられないし首もまともに動かせない。完全な束縛である。 ほんの数秒間のことであった。その数秒で部室に人で積み重なった小山ができあがっていた。 「じゃ、こっちに」 「え、あ、・・は・・・い」 竹原がトンボを担いだままの嘉祥を伴い、ドア前から彼の指示でつぶされた後輩の前へ回り込んだ。 「兄貴・・・・!」 目だけでこちらを見上げてくる。つぶされててもやはり凶悪なオーラは弱まらない。 「・・・平気か?」 心配しても返ってくるのは苦々しい睨みだけ。 「・・・なあ、嘉禄。理由を話してくれ。何をそんなに怒ってるんだ」 返答は、目をそらし唇を怒りに歪ませただけであった。 「嘉禄」 「話したらどうだ嘉禄」 嘉祥の呼びかけに竹原がかぶさった。 嘉禄は視線を副部長のほうにやる。不満げなその視線は拗ねているようでもあった。 「俺たちには関係ない、とは言わせないぞ。今日の部活でのお前のワンマンプレーは凄まじかったが」 個人プレーで二年、三年を蹴散らしていた。ファウルプレーすれすれなのも多かったが。しかしそれではチームとして成り立たない。 「いつでもあんな精根注ぎ込んだ荒いプレーができるわけじゃないだろう。早めにもどってもらわないとまともにチームプレーができない。というかその眼つきをなんとかしてもらいたい」 「スポーツマンつうか殺人者だもんなありゃ」 嘉禄たちとは反対側で横田が軽く笑った。いまだに半裸だ。 言われた殺人者はそちらのほうを睨むが、とうぜん上にのしかかっている人山で阻まれて届かない。 「・・・・あはは」 「・・・・・」 代わりに三段目の雄介と目があった。かなりつらそうに苦笑していた。 二段目の大畑はなんだか死んだようにぐったりしてる。調子に乗ってボディプレスなんてしたのが悪かったのかもしれない。そうでなくても嘉禄とは一人分しか違わない重量につぶされているのだから無理もないといえる。 「嘉禄。どうして怒ってる」 赤く染まった部室にトンボを肩に担いだ、左頬にシップを貼り左目が半目の男が、人の小山につぶされた一年に問いかけている。 物騒きわまりない光景が活動後のサッカー部部室に展開されていた。 しかしまあ人山だけ見ると滑稽ではあった。 「うるせえな・・・!言っても意味なんかねえんだよ!」 肺が圧されてるせいで呻くように言い、兄を見上げて睨みつける。 こんな状態になってまでも怒りの理由を言うつもりはないらしい。大した意地っ張りである。 部員につぶされ全身を動かせず、兄を見上げながら、嘉禄は奥歯を噛みしめる。 この怒りの原因が兄とのことにはあっても、その本人にぶつけたって意味がない。困らすだけだ。困らせたいんじゃない。今もすでに困っているようだがこれ以上困らせてどうする。 こんな状態になってまでも自らの怒りの理由をさらす気はない、その意固地な思いはきっと嘉禄にしかわからない。 何年も抱いてきた優しさゆえの負い目。兄を思うがゆえの不言。他人から見たらただ呆れられるだけの、怒る理由。 とはいえ現状は嘉禄が黙ったままでは打破されない。 嘉祥は弟の意思のこもった睨みを受け止め、寂しげに顔を伏せた。その横で竹原がため息をひとつついた。そして小山の向こうに声をかける。 「横田。お前ものっかれ」 「んー?ははっ。おう」 副部長の命令に二つ返事で半裸の長髪が動いた。 「ぐっ・・!・うおぉっ・・・・!?」 がっしがっしと小山が揺れ動き荷重が増える。嘉禄の身にさらなる重量が襲い掛かる。 「あ、あの・・・ちょっと」 嘉祥がうろたえる。弟の体は大丈夫だろうか。 「うおおお!?ちょ、先輩おちるおちる!揺らさないで!」 「てめえ横田こらあ!ちったあ気つかえよ!」 「おおおお!?重い!重いっすー!」 ギャーギャー騒がしく山が鳴き、かくして半裸の男は頂上へ到達した。 雄介は「ふぐう!」と空気を吐き出し、大畑は「ふきゅう」となにか鳴いた。 頂上で横山はふんぞりかえる。 「・・・サル山の猿のようだな。裸なのもあって」 「お、て、てめっ竹原あ!なんつー言い草だおい!」 副部長は頂上を見上げて率直に感想を述べた。 「うおおお!だから先輩揺れないでー!」 「てめーの土台になってる俺らのほうが惨めだろーがあ!」 「ていうかそれだと俺らサル山の山っすか」 「猿は猿でも頂上にいられるのはボス猿だけだからいーじゃねえか」 「でも俺たちが山だとすると先輩は一人ぼっちのボス猿ですね」 またも山が騒いだ。 「好き勝手言ってんなおめーら!」 「悪いみんな。余計なことを言った」 竹原が謝る。 「俺に謝れよ!」 横田がまた騒ぐ、揺れる。そして山も「ちょ、ちょっと先輩ー!」「横田ぁ!」「裸ー族ー!」騒ぐ揺れる。 「誰が裸族だ!」 上に乗られようともおとなしくなんてならない連中である。 「すまん。だからあまり動くな」 「・・おう、それでいいんだよ」 竹原の謝罪にやっとこさ、落ち着いた横田。と、それに応じて沈静化する小山の面々。 横田が山頂で胡坐をかく。小山のいたるところから安堵のため息がもれた。 落ち着いてみると嘉禄にのしかかるずっしりとした重量は、一人増えたぐらいじゃ変わった気はしなかった。確かにさっきよか重いけど。 「そろそろ意地を張るのもやめなさい」 竹原が諭すようにつぶれてる嘉禄を見下げて言う。 「嘉禄・・・・」 嘉祥が悲しげな視線をよこす。しかし担いでるトンボのせいでどうにも不穏に見える。 「・・・言いたくねえんなら、・・・無理矢理、・・言わせりゃあ、いいんっすよ・・・・・」 答えたのは二人の背後、嘉禄に殴られ部員に踏まれ倒れ伏していた東吾。シャツと制服のズボンの前面を靴跡で汚された男はよろよろと頼りなげに起き上がっていた。 さっきの小山の騒ぎで目が覚めたらしい。 「起きたのか東吾」 「おーおー、無事かあ?お前」 「東吾・・大丈夫か・・・・?」 嘉祥と、先輩二人のぞんざいにかけられた声を無視して嘉禄のもとに座り込む。 ギロリと刺される視線を受け流し東吾はその両頬をかるくつねる。 途端に殺気に満ちた相好がかわいいものになった。 「へめっほうご!あにふんだ!」 「今日お前には二回も殴られたからなあ、ええこら。ははん、そんな状態じゃなん〜にもできねえだろ。はっ!」 楽しげに嘉禄の頬をつねったまま回す。 睨みを鋭くするが、とうぜん怖くなかった。ていうかおかしかった。 「イヤなら早えとこ言えばいんだよ。おーこの。ほーれほーれ」 今度はみよんみよん、と頬肉を伸ばす。なかなか柔らかそうであった。 かわいい睨みを受け止めながらしばらくそうしていて、 「・・・いい加減にしろよお前ほんと」 ぱちん、と肉を離して東吾は呆れるように言った。 しかし返ってくるのは相変わらずの不機嫌な鈍い眼光だけである。頬をつねられたせいで少々不機嫌度が上がってる様子。しかしつねられも引っ張られもしていないその眼光は、どこか鋭さがなりをひそめ、意地を張ってるのがありありと見えていた。 東吾はため息をひとつつく。 「祥。ちょっとそのトンボ貸せ」 「・・・何をするんだ」 トンボを両の手で抱いて、拒否の態度を嘉祥はとる。 「そんなんで殴ったらジョーダンにならねえぞー東吾」 上からボス猿がのんきそうに言ってきた。 嘉禄が東吾の言葉に反応して、ギッと眼光に鋭さを取り戻した。 「殴んねっすよ。本来の用途で使うだけです」 呆れ気味に上を見て、それから嘉祥にむかう。 「おう、行こうぜ祥。お前グラウンド整備しに来たんだろ。こんな怒ってばっかでうっとおしくて迷惑にしかなんねーヤツほっといてとっとと済ましちまおう」 「なっ・・・!」 嘉禄がこちらを見ていない東吾を見上げながら呻いた。 「え、いや・・・いい。これは俺がやんなきゃなんないし」 昨日、弟に言ったのと同じようにその申し出をやんわりと嘉祥は辞退する。 「うるせえ。サッカー部だってグラウンド使ってんだよ。なあ副部長」 「ん・・・」 話を振られた竹原は東吾の真意を計りかねた。その間に嘉禄が吼える。 「東吾てめえ!待てこらあ!」 「はん!お前はそこでつぶれて寝てやがれ!てめえの兄貴に迷惑しか掛けられねえ役立たずが!」 「あ゛ぁ゛!?んだとこらあ!!ふざけんな!!」 「もう一度言ってやらあ!やーくーたーたーずー!はっ!」 「て、めえええええ!殴る!ぶん殴る!下りろ雄介え!」 「・・・ムリ」 「うお。すげえ、ちょっと揺れた」 青い顔の雄介が呻いて登頂で横田がつぶやいた。嘉禄のもがきが小山を振動させたようである。 嘉祥は二人の言い争いに置いていかれていた。 竹原は、なにやら嘉禄が今までにないくらい反応しているので、東吾に任せることにしてみる。 「じゃ、東吾。彼とグラウンド整備に」 「副部長!」 嘉禄が怒鳴った。竹原は無視する。 「みんなは悪いがそのままで。横田も動くなよ。お前が動くとバランスが崩れる」 「へーへー」 「ちょっと、待ってください。俺は・・・」 「おら行くぞ」 戸惑う嘉祥を東吾は引っ張っていく。 「おい待てよ!東吾てめえ!」 怒鳴り声に嘉祥が立ち止る。東吾も止まって、そして竹原のほうへ目線を送った。 竹原はその視線を受け止めて、そして嘉禄に言う。 「嫌なら理由を言えばいい」 「・・・・っ・・!」 頬を歪めて悔しそうに竹原を見上げる。 「嘉禄・・・」 嘉祥が小さくつぶやく。 「そのままでいいんなら、お前はやっぱり迷惑ばっかかける役立たずだな」 東吾が頬を歪めて嫌味たっぷりに言った。 その一言で、キレた。 「あああああくそ!」 このまま黙ってると東吾が兄貴を手伝ってしまう。自分は何もできずに。そんなわけにはいかない。 「うるせーな!わかったよ言えばいいんだろこっの東吾のクソヤロー!!」 「なに俺にキレてんだこらあ!」 嘉禄は東吾を無視して兄に矛先を向けた。 「よーく聞けよ兄貴!俺ぁな、昔っから申しわけねーと思ってたんだよ!」 「・・・何がだ?」 勢いのまんま、嘉禄はいろいろぶちまけようという気らしい。今日一日溜めた鬱憤を晴らすいい機会ではある。 見上げてにらんで、つぶされながらも肺に空気を入れ込み、表情と口を怒りあらわに動かしてわめき散らす。 「ガキんときから俺らのメシ作って掃除して洗濯して家事全般ひとりでやって!手伝おうとすりゃ断って!そりゃ俺は料理なんてできねーし!なにより兄貴が俺らの面倒みんの楽しそうだし!邪魔しかできねーんならしょうがねえかなとか思ったりしたけどよ!だけどそれでもなんか悪い気がしてたんだよ!長男だからって兄貴ひとりにおしつけて!だからせめてほかのことじゃ苦労しねえようにしてもらいてーじゃねえか!!」 兄のほうをにらみつけながら、まるで砲弾を連続で撃ち出すかのごとくに一文ごとに力を込め、嘉禄は怒鳴りつける。 それはいつだって兄に対して抱いていたこと。口にすることだってあったけど、その度にいつも『気にするな』で片付けられてしまうこと。 「い、いや・・そんな嘉禄。気にすることないんだぞ?大したことじゃ」 「黙って聞け!」 「・・・・・・ごめん・・・・」 今回もそう言う兄に対し嘉禄は喝をもってさえぎる。 嘉祥としては弟にそんな気持ちを持たせてしまっていることが申しわけなかった。だからそんなこと気にしないでほしかったのだ。別に家事をすることをイヤだなんて思っていないのだから。 部室内には夕焼けと人山と、それに相対する数人。 昨日の夜から弟のことで悩んでる嘉祥。表情を変えずに腕を組んで聞いている竹原。うるさそうに顔をしかめてる東吾。山のサッカー部員の面々は黙り込んで。頂上の横田は半裸でふんぞり返り下の眺めを偉そうに見ていて。 その中で山におしつぶされてる嘉禄の怒鳴り声だけが轟いている。 「それなのになんで兄貴がグラウンド整備なんだよ!話聞きゃあ兄貴はなんも悪くねえじゃねえか!なのになんで兄貴はしっかりやってんだよ!なんで今日もやろうとしてんだよ!しかも今日いれてあと三日だあ!?野球部の連中にやらせりゃいいじゃねえか!兄貴は家事で忙しいだろーが!なのになんで代わりにやらせてもくんねえんだよ!手伝わせてもくんねーんだよ!ふざ、っけんじゃねえよこのバカ兄貴!!!」 罵倒の砲弾を力いっぱい撃ち出して、山におしつぶされながら肩をかすかに上下させる。 「だから俺あ怒ってんだよ!!」 最後にもう一発ドカンと撃って、嘉禄は深呼吸ひとつして怒りに熱された空気を肺から吐き出し、実の兄をあらためてにらみつけた。 嘉祥は怒鳴りつけられながら、にらまれながら、責められながら。バカ兄貴と呼ばれながら。 そんなことで怒ることないのにと思いながら。 それでもほっとしていた。 安心していた。 怒っている。怒鳴りちらしている。わめいている。いつもより苛烈だけど、嘉禄のそんな姿はいつものような怒る姿。暗く内に溜めて怒る姿じゃなくて、不満を爆発させる光りのような怒る姿。 そして、ひとを思って怒る嘉禄の姿。その姿に安心をした。やっぱりこれが弟なのだ。 それは昨日の夜から見られなかった。その時から嘉祥は悩んでいたけど、その姿を見せないのは自分が理由なのかと考えて悲しかったけど、それが見られた。 一日中、何が悪いのかわからなくて考えて、返ってきた答えは『なんでそんなこと』というものだったけど。 こうやって怒鳴り散らす嘉禄の姿が見られたなら、それでもういいかと思った。 「そうか・・・・・。・・・・・でも、本当にそれだけなのか・・・?」 「それだけたぁなんだ!」 「あ・・・・・いや」 それにしてもそれだけのことでここまで怒ってたということにちょっと拍子抜けした。でも、まあ大したことじゃなくてよかった。ほんとうに。 「ちょっとほっとしたっていうか。よかったというか・・・・あんなに怒る理由なんて本当にわからなくて」 嘉祥のその安堵にかぶせて、はああぁぁぁああ〜、と東吾がわざとらしくため息を長〜くついた。 いぶかしげに嘉祥が東吾を見た。殺気を込めて嘉禄も見た。 「ほんっとそんなことでよお。なんだこの騒ぎ?あーやだやだ。けっ。ようはアレだろ。祥の代わりに嘉禄が整備すりゃいいんだろ」 「いや、でも」 「うっせえ!」 東吾がムリヤリさえぎって嘉祥が肩をビクリと震わす。 「じゃあ嘉禄が祥のこと手伝えばいいだろ!もう文句言うんじゃねえ!いつまでもこいつがこんなんだと周りの俺らどころかスレ違うヤツ全員にまで迷惑かかるんだよ!納得しやがれこのアンポンタン!」 ビシぃ!とアンポンタンに指を差す。東吾の言葉に竹原も頂上の横田もうんうんと頷いていた。 「・・・そんなに俺はアンポンタンなのか・・・・」 肩をトンボにあずけて消沈する嘉祥。 しかし竹原と横田は『迷惑がかかる』という部分に同意したのであってアンポンタンうんぬんはどうでもよかった。 「え、ちょ横田先輩?・・・・お、おぉ?ちょっと!?」 「おい横田!重心ズレてんぞおい!崩れるじゃねえかこらあ!」 「ぬおおお・・・!・・・じ、重量移動が起きてなにか内臓のヤバイところを圧してますー!!うぎィあー!」 と、上に座ったまんまの横田が重心を後方、ドアのほうへ向けて動かした。お陰で小山はズズズと崩れそうになって傾きかける。 「こらあ!裸族どういうつもりだ!おい裸族!いまどき長髪なんてセンスねえ猿裸族!」 ぴきっ、とその暴言に反応した半裸横田はこめかみに怒りマークをこさえて後ろに移していた重心をぐいーと再びもどす。山崩れはギリギリで持ち直される。 「うおおおー!なんだよ!崩すんなら崩せよ!こんのてめっ・・・・あぁそうか!さっすが猿ってところだな!体重移動はお手のものってかあ!?」 さらに重心を後方にもどす猿。傾く山。 「ぬあああー!てめー!横田ー!あほー!」 「煽るお前もアホじゃねえかと思うけど」 「ぎゃあー内臓!内臓がイタイですう!変なツボに入ったー!!」 「ジッとしててくださいよお!危ういところでバランス保ってんですよ!ていうか崩すなら遊んでないですんなりやってください!」 「ああ、俺たちゃ男ながら横田に遊ばれたんだ・・・」 「なに気色悪いこと言ってんですか」 そんなセリフを頂上で無視しながら半裸のボス猿、横田はちょっと楽しくなってきた。 ぐらぐら揺れて、うるさくわめく山の底辺、最下段の嘉禄にはあまり影響はないようで、表情に呆れを貼り付けながら小バカにするように息をついた。しかしその目には剣呑な輝きが満ち始めている。 狭い部室内でぐらぐらゆれている小山を嘉祥は見ていて、とても危なっかしかった。三段目の雄介が心配になったが、当人はもはや諦観の念で苦笑をたたえたままつぶされているだけだ。 「さっさとしないか」 その光景を傍観していた副部長の竹原は呆れて、行動に移す。揺れる山の中腹あたりを肩幅ほど開いた両手でぐぐぐっと押した。 「お、」 「おおう・・・・・おおおう!?」 「あー!副部長ー!そりゃーないぜー!」 「不意打ちだー!」 「おーおー、・・・あーぁ。崩れるなこりゃ」 山の面々が悲鳴めいた何かを言い。そしてそれだけでもう、傾きはドアのほうへ向いて横田も戻せない。 「ちっ」 ゆっくりと傾きながら、頂上で胡坐をかいてる横田が舌打ちをした。まだしばらく揺らしたかったらしい。というかできるだけこのまま山を崩したくはなかった。 ズ・・・・・・ズズ、・・・・・・・ズズズズズズ・・・・・ズ・・ズゥン・・・・・・・・・。 意外にも穏やかに崩壊した人山。頂上近くの何人かはすでに部室外にはみ出していて、横たわる部員のその先で半裸横田は立ったまま頭をかいていた。そして踵を返しグラウンドへ向かって歩き出す。その横顔には一抹の焦燥。 外で倒れてた部員はそれほど重量がかかってこなかったのもあって早くに起き上がり、なぜか横田のあとを追うようにグラウンドへ向かう。その顔には一抹どころじゃない焦燥。 部室内では崩れたところどころで呻き声が上がり、大畑は静かにうつぶせになっており、雄介はぐったりと顔だけ横にして倒れ伏していた。 その中をゆらりと、一番下にて一番騒ぎ今日一日怒りを撒き散らしていた危険生物が起き上がる。汗とは違った上気がその体のいたるところから立ち昇り一種のオーラをまとっていた。 「じゃーほらみんな。サッカー部全員で手伝うぞ。ほら起きなさい」 副部長がパンパンと手を叩いて続々とゾンビみたいにのろのろ起き上がる部員たちへ合図した。重量にやられた部員はなんとか起き上がって焦るようにドアへと向かってどんどん出て行く。 サッカー部は全員、嘉禄の上に負ぶさったそのときから覚悟を決めていた。 「え、そんな」 その光景には目をやらず、竹原の言葉に嘉祥が振り向く。 「そのほうが早く終わる。というかしばらく整備どころじゃないだろうから。それのお詫びもかねてというか。ほら、とにかくみんな逃げろ」 逃げろ? 彼のセリフのいろいろな部分に気になったが、なぜ『逃げろ』? 嘉祥の疑問はすぐに解ける。 「おーしホラ来いや嘉禄!もう遠慮なんかいらねえよなあ!いーかげんその指名手配されそうな極悪なツラに一発ぐらいお見舞いしてやらあ!」 嘉祥の目の前で、東吾が立ち上がった嘉禄に向かって挑発的に中指を上向きにしてくいくいと動かしていた。 そして バズーカ砲のような衝撃と轟音とともに東吾の身体はその砲弾のごとくに部室のドアを通って吹き飛び、ドア付近の逃げ遅れた部員を巻き込んで校庭の方へ一直線へ飛んだ。 人間砲弾である。 撃ち出したのは嘉禄の憤怒を込めた正拳突き。両足を開いて腰を落とした安定した力強い姿勢で、撃ち出した右拳をのばしたまま、その先を発砲したあとの銃口のようにくゆらせていた。 「そ、総員戦闘配備だー!」 吹き飛んできた東吾やそれに巻き込まれた部員何人かが、どどう!と足元に落ちてきて、すでにグラウンドにまで辿り着いていた横田はそう叫んだ。 ざわざわざわ、と外で部員が騒ぎ出し嘉禄は兄の手からトンボを奪い取り、それを追って走り出す。 眉間のしわが深まった。鋭い眼を見開いて力を込めた。 そして喉奥に力を込めた。 「てめーらああああああ!よくもいつまでも押しつぶしてくれたなあああああああああ!!」 その怒号が、倒れた大畑と雄介、立っている嘉祥と竹原だけになった部室にまで響き渡って。 夕焼けに染まるその中で竹原は嘉祥に言った。 「今日一日中、溜めた怒りがさっき怒鳴ったぐらいで発散されるはずもないだろうから」 まあ、解放のキッカケをつくったサッカー部で責任をもって発散させるしかない。 そうつぶやく竹原に、嘉祥がその場でできることは、 「・・・・・・もうしわけない」 ただ謝ることだけだった。 昨日の灰峪が起こした野球部の事件とは違って、今回のこの嘉禄を中心とするサッカー部の乱闘事件に対する処罰は何もなかった。 荒れ狂う台風のごとき白雉嘉禄をサッカー部が一丸となって治めようとしているのを見て、残っていた教師たちは正しく認識したのである。 サッカー部で暴動事件が起きたのではなく、本日、日がな一日話題にのぼった一年の、何らかの理由でブチキレた白雉を取り押さえようとしているだけなのだ、と。 お陰で部活停止も大会出場停止も何もなかった。 だいたい見ようによってはハイテンションで遊んでるように見えなくもない。 それにもとより活発な嘉禄がああなったのは教師にとっても困りものであり、なにかしら処分を与えてさらに凶悪になられてはもっと困る。 そういう打算もあったようではある。 嘉禄の怒りは一日で完全に、教員を含めた高校全体にまで影響を与えていた。 ところでトンボを兄から奪った嘉禄だがなにも殴るために使ったわけではなく、一応、ではあるが本来の用途通りに使ってはいたのである。 たとえばピクリとも身動ぎのしないグラウンドに転がってる東吾をさらに転がすためにものすごい勢いでトンボで押したり。 東吾はそのトンボの先で整地用ローラーのごとくに回転していた。その犠牲者には、いつまでも寝っ転がってるんじゃない、と無体にも嘉禄迎撃に向かわされた大畑やその他部員大勢も。 ちなみに部室内では水面蹴りを軽やかに喰らわせた副部長も、責任感からか勇敢にも迎撃に向かった。ものの無論返り討ちにあった。 「人山を築いた一番の要因の俺はただではすまないだろうからな」 責任感というより諦観だろうか。 気分は特攻隊だったという。 竹原、横田、大畑、東吾。そして雄介も例外ではなかった。 「あー・・・やっぱり僕も?」 とどのつまりサッカー部員、誰もが回転し砂まみれにされたのであった。 無傷だったのは兄である嘉祥と、かけつけた時にはすでに制服に着替えていたマネージャーの恵だけである。 そしてその後、辺りはすっかり暗い中、サッカー部+嘉祥でグラウンド整備に励んだ。 やはり人間ローラーでグラウンドが整地されるはずはないのである。むしろ砂塵が煙りまくり煙幕を形成してたりして最悪だった。 そしてその分、誰よりも勢いよく整備していたのが通常どおりに戻った嘉禄だったのは、言うまでもない。 遅くに帰宅した白雉兄弟は、嘉禄の怒りが治まったお陰で家族内にすんなり和をとりもどした。 非はないにも関わらず謝ってきた末妹に嘉禄は逆に謝り、元気と笑顔を復活させた妹はもとにもどった嘉禄が嬉しくて、その夜はずっとその兄に甘えっぱなしだった。 後ろのほうで嘉祥が微笑みながらも若干寂しそうにしていたのはもちろんのこと、それを居候と三男が慰めていた。それらを等分に見ていた四男は小学生ならぬ安堵のため息をついていた。 血の繋がりはなく過去を知らない、ホームステイという『家族』であるイギリス人の居候は訊いてみた。 「結局、怒っていたことは解決したんですか?」 「あん?解決なんか一生しねーよ。でもま、しょーがねえからな。とりあえずあんまりその話しないでくれ」 「はあ、・・・そうですか。でも本当もとに戻ってよかったですよ。昨日、嘉禄を見たときは何事かと思いましたから」 「あー・・・昨日は悪かったな。筋肉痛とか大丈夫かジョンソン」 「・・・・いつも通りに呼んでくれませんか白雉」 「うちは全員白雉じゃねえか!」 そんなツッコミが返ってくるあたり、いつも通りの嘉禄なんだな、とアルは小さく笑った。 ちなみに、筋肉痛はこのあと二日間ほどあとをひいていた運動不足の社会人であった。 二日連続の事件後、月澄高校。事件一日目の中心には白雉嘉祥が。二日目の中心にはその弟、嘉禄がいた。 今日ではとうぜん二日目のほうの嘉禄のほうが注目をあつめていたが、しかしそんなことは気にもとめずにいつものように登校し、いつものように自分の教室に入り、いつものようにHR前の時間を過ごす。 昨日とは違う、いつもを過ごす。その眉間にしわはない。鈍く光る眼光はない。 「あ、・・・・お、おはよう・・・・・白雉くん」 嘉禄の前の席の女の子は昨日、あんなにも鋭い眼光をあてられたにも関わらず今日も挨拶をする。 登校しながら昨日の事件のことを耳にしてもとに戻ったと聞いたし、なにより話の通りに彼の雰囲気がいつもの彼のものにもどっていたからである。 「おう、おはよ」 特別、笑いかけてくれるわけではなかったが、当たり前のように普通に挨拶が返ってきたことにとても安堵した。 昨日と違って、カバンを置いたら自身も椅子に腰を落としてしばらく嘉禄と談話した。 話しながらも彼女は思う。 白雉くんがいつもどおりなだけで、教室もいつもどおりの雰囲気になっている。 他人にこういう影響を与える彼はすごく素敵だと思った。 しばらく話して彼女は友達のところへ向かった。 「すっかり元通りだねえ」 「なんでだよ。もっとこうしらじらしい視線とかいじめの三歩前ぐらいの視線で刺されるべきじゃねえのかよお前はよ」 それを見計ったように、ほのぼのと安心しきった雄介と、それに反した苦々しい顔つきの東吾が嘉禄のそばにくる。 そのうしろに恵もいた。 ちなみに嘉禄にしろ東吾にしろ雄介にしろ、皆どこかしらに絆創膏なり痣なりシップなりあった。驚くことに一番それが少ないのが嘉禄である。サッカー部全員と渡り合ったというのに。そして一番多いのは東吾である。 ちなみに東吾を除くとサッカー部では大畑がいちばんダメージを受けていた。 差はあれど部員はマネージャーを除き全員彼らと似たような状態なので、本日の活動は臨時にお休みである。 ということを恵が伝えた。その間に東吾は、さっきまで女の子がいた嘉禄の前の席にまたがるように座り、嘉禄の机に頬杖をつく。 「それにしてもすごいねえ。サッカー部が全滅だよ。嘉禄が他の部に手ださなくてよかったよー」 「怖いこと言うなあ・・・」 のんきなマネージャーに雄介が少々顔を青くする 「けっ!どうせそうなってたって俺たちサッカー部が止めに入って、そんで昨日みたいなことになるに決まってんじゃねえか」 東吾は嘉禄の机に頬杖をつきながらおもしろくなさそうに吐き捨てた。 今回、一番とばっちりを受けたのは東吾である。しかしそれは一番、嘉禄をなんとかしようと動いたゆえの結果であった。 「サンキューな」 顔を窓に向けながら嘉禄がつぶやいた。その向こうの外では小鳥がいつものように鳴いている。今日は、小鳥は嘉禄の視線から逃げることはないようだ。 つぶやきを三人は、一人として聞き逃すことはなかった。そして恵も雄介もそれが東吾に向けられてるんだろうということがわかった。 向けられた当人はしかし、納得しない。お礼の一言で済ませられるほど昨日のコイツの相手は簡単ではなかった。 ということで、東吾は素直に受け取らない。 「あん?なんだって?礼言うんならこっち向いて言ったらどうだおい嘉禄さんよええ?おいコラ」 「・・・・・・・・・」 唇の片端をひきあげながら嘉禄はギギギと首を動かし東吾を見返す。窓の外で小鳥が飛び立った。 「・・・蟻が十匹」 「てめえホントに感謝してんのか!」 「わー!ちょっとちょっと二人とももういーじゃんー!」 一触即発のようなふたりに雄介が止めに入る。昨日のノリを引き継いでるようでその様子に雄介はどうにも不安が湧きはじめる。 「恵はなんでニコニコしてんのさ!」 うしろでおかしそうに微笑んでいる級友に雄介は助けを求めた。 「まあまあ。雄介もちょっとは気ぃ抜きなって」 ポン、と肩に置かれる手に、ああ自分はホントに苦労性なんだな、と思わされる。恵ののんきさは常々見習いたいと思っているけど、それだとよく一緒にいるこの四人のバランスが崩れるように思えてためらわれる。 それに恵ののんきさは少し異常なぐらいなんで、そう思うとやっぱりこのままでいいかとも考えたりする雄介であった。思春期の男三人の中に平然といるところなど、もし逆の立場なら見習えるはずもないだろうし。 「おっはよーさーん!聞いたでこのー!」 心中で一息ついてるところへ突如ドーンと関西弁の女が体当たりしてきた。当たられた雄介と恵が、嘉禄に覆いかぶさる形になる。 ひとり向かいの席にいる東吾には被害が及ばなかった。 「よお山下」 ひとり無傷の東吾は片手を上げて乱入してきたクラスメイトに挨拶をした。 「いたいよ、山ちゃ〜ん」 「・・・嘉禄、平気?」 のっそりと上半身をあげたふたりは、一人は背後の少女を非難してひとりは前方の少年を心配する。 「こらあ山下あ!てめえ朝からなにすんだよ!」 グアバぁ!と上半身をあげてひねって雄介を通りこし、後ろの体当たりしてきた関西弁に怒鳴りつける。昨日の嘉禄はまず睨み、だったがいつもの嘉禄はまず文句、である。 「おお!ほんまに元にもどっとる!いやあ嬉しいわあ。朝から嘉禄の怒鳴り声が聞けるやなんて・・・!やっぱそれが白雉嘉禄やねんな!」 「てめーは俺を頑固オヤジか鬼監督だとでも思ってんのか!怒鳴るのが俺のアイデンティティか!?」 椅子から立ち上がって朝からハイな関西弁少女につめよる。 雄介と恵は東吾のほうによってそのやりとりを眺めることにした。たぶん、すぐには終わらない。 「あーえーなあ。ツッコミや。えーやないの嘉禄!昨日ためたぶんをそれで発散しーや!」 「もうしたよ!もう発散するほど残ってねえ!」 「発散したんは怒りのほうやろ?それよかほらあ、昨日はツッコミもボケも全然してへんやないのー。リアクション芸人魂がうずいてるんやろ?」 「勝手にそんなおちゃらけた魂を俺に宿すんじゃねえよ!」 「おちゃらけたとはなんや!?バレンタインデーに『っ誰だーーー!こんなさも「ネタです」と言わんばかりのチョコを置いたのはーーーっ!』なんて叫んだのは目の前のアンタやないか!」 「なんで一言一句憶えてんだてめえは!声マネまでしてんじゃねえ!なんか恥ずかしいだろうが!しかも仕向けたのはお前だろ!」 「だってなあ、しないわけにはいかんやん。嘉禄やもん。よっ、リアクショナー!」 「なんだその単語!?間違ってんだろ!?くしゃみの音みてーじゃねえか!」 「そう?あーでもそうやなー。こんな感じ? 背後に気配を感じて振り向いたらそこには!『・・・はっ、リアクショナー・・・!』」 「だせえ!チョーだせえ!なんで俺背後にいんだよ!幽霊か!」 「あっはっは。『リア』を小声で言うのがポイントやな。それにしても嘉禄ー。男子高校生が『チョー』はないやろ『チョー』は。どうしたんぜよまったくー」 「なんでいきなり土佐弁になったあ!お前がどうした!」 ふたりのぎゃあぎゃあというやりとりを眺めながら三人はそれぞれに感想をもらした。 「うるせえなあ」 「嬉しそうだねえ、ふたりとも」 「・・・嬉しいのは山下さんのほうだけじゃないかなあ」 もういっそ夫婦漫才でもしてるかのようなありさまが三人のすこし向こうで展開されていた。じつはけっこう日常的に見る光景だったりする。 そしてそれはそのままで、またも日常的な光景が嘉禄たちのクラスに舞い込んできた。 「ぐっどもーにんぐ我が親愛なる級友達よ!おうやった!今日は最後まで言えたな!」 ガラララばん!と教室前方のドアを乱暴に開けて新聞部一年、菅野が登校してきた。 昨日は挨拶すらまともに言えなかった菅野である。 クラスメイトの皆も昨日と違っていつものように彼に挨拶をしていた。挨拶を返しながら菅野の目指すはただ一点。 嘉禄のいるところである。 彼の怒りが治まったのは知っている。昨日、事件が起きたということはそういうことだ。 しかし菅野はもともと嘉禄の怒りをなんとかしようと思っていたわけではない。 今までからかってきた、嘉禄の兄が『黒龍』と呼ばれることについてどうにかしようと思っていた。 菅野が嘉禄を怒らしたのはそれが原因だったのだから。 「嘉禄!」 「ああ!?」 山下に絶え間もなくツッコんでいた嘉禄は勢いよく振り向いた。 「おースガっち、おっはよー。今日の嘉禄は良好やでー。調子がいいったらないわ」 「おう、はよ菅野。今日も元気だなお前」 「嘉禄!」 「何回呼ぶんだよ」 またもとつぜん声を上げた菅野に嘉禄はちょっと呆気にとられた。朝から元気がいいのはいつもだが、やけに気合が入ってるような。昨日の仕返しか? しかし直接に手を下したのは東吾のほうである。手というか足を。 「昨日はすまなかった!お前がそこまで兄貴をあーいうふうに呼ばれるのがイヤだとは思ってなかった。ごめん!」 グぁばあッ!と直角に上半身を折り曲げた菅野に、嘉禄はさらに呆気にとられる。 「いや・・・別にいいって。昨日は俺も普通じゃなかったし」 「ほんまやで全く」 「深く頷くんじゃねえよ」 腕を組んでうんうん、と同意する山下を適当にあしらって嘉禄は頭をかく。 「いいから頭あげろって」 その一言で下げたときと同じようにグぁばあッ!と上半身をもどす。そして高らかに宣言する。 「そこでだな!俺は今日のニュースを発表する。よーく聞いてくれよ!」 嘉禄は、「はあ?」と呆れており山下は「なんやなんや」とちょっと楽しそうにして。菅野はぐるりと教室中に体ごと視線をめぐらす。 どうやらクラス全体に向けてらしい。 東吾はつまらなそうに。恵はのんびりと。雄介はなにが始まるんだろうとぼんやりとしていた。 すう、とわざとらしく息を吸って菅野は声を響かせた。 「『月澄の黒龍は眠りにつき、その名は弟に二代目として譲られた』―――!!」 「・・・・・・ああ?」 ポカーンとする間の抜けた嘉禄の声が、同じくポカーンとする教室内に妙に響いた。 「おめでとう嘉禄。お前は今日から『二代目・黒龍』だ!どうだかっこいいだろ!」 ぽん、と気軽に置かれた手をキッカケに、反抗するように嘉禄は目を見開いて反応した。 「はあ!?なんだそりゃ!?なんでそうなるんだよ!いつ俺がそんな名前受け継いだんだよ!」 嘉禄の肩に置いていた手を離し親指だけ立てて、ふふんと得意げに自分に向け菅野は言った。 「俺が捏造した」 パカン。 小気味いい音を立てて嘉禄がアッパーをかました。 「なにしてんだてめえはゴルア!」 「ぐ・・・うぐう・・・・なんて手の速さ。恐ろしい・・・・さすが二代目」 「誰が二代目だあ!」 顎を抑えてうずくまる菅野を、さらに蹴りつけてやろうかと思った。 菅野の考えはこうである。 兄を『黒龍』と呼ばれるのが嫌ならば他の人間がそう呼ばれることになればいい。昨日の顛末で嘉禄の恐ろしさは高校全体に広まっていたし、兄弟ならばその名を受け継いだとするのも真実味がある。 それに昨日、誰もが思っていたはずである。 『黒龍』の弟はやはり『黒龍』なのだ、と。 ということでこれが菅野が起こした、彼なりの今までからかってきたことに対する詫びである。 嘉禄としては、兄が誤解されるのが嫌なのであって『黒龍』という呼び名自体を懸念していたわけではなかった。 というよりこれだと逆効果で自分までそういう誤解を受け継ぐことになる。 「今すぐその誤情報を消去してきやがれ!新聞部なら真実を訴えたらどうだ!」 菅野の胸倉をつかんでゆっさゆっさと揺さぶりこめかみに怒りマークをくっつけてサッカー部の嘉禄が訴える。 「無理だってー。ホントみたいなウソは、ウソみたいなホントより定着しやすいんだから。大体もう全学年に加えて職員室にも号外だしてきちゃったし」 「てめえホントに何してやがんだあ!?」 「うぐぉ!?し、締まってる・・・・・!嘉禄おちついて!ギ、ギブギブギ、ふ・・・・っ・・・・・っ・・っ・・・・・・・!!」 ちなみにその号外の見出しは『驚愕!「黒龍」継承儀式は数十人を蹴散らすこと!?』であった。 菅野は顔を青くして声も出せなくなってパンパンと嘉禄の腕を叩くが緩めちゃくれない。 「その辺にしときぃや二代目ー」 「誰が二代目だてめっ山下あ!」 楽しげにニヤつきながら山下は嘉禄の肩を叩いた。その手に締め上げられてる菅野はもう一度嘉禄の腕を叩こうとして力尽きだらん、とその腕が落ちる。 「か、嘉禄!そろそろやばい!ホントにやばいって!」 いつのまにかそばに来ていた雄介が騒ぐので仕方なく手を離した。首の圧力が消えてどたっと尻だけあげたマヌケな格好で菅野は床にキスするように倒れる。 「あっはっは!いやあ二代目かー。ええやないの!かっこええでー嘉ー禄う。なんか組長みたいやんか」 「おう白雉組か。いーじゃねえかおい。でもそれなら『二代目』より『若』のほうがいーんじゃねえの?」 「話を広げに来んじゃねえよこの東の吾輩が!」 「人の名前をわけわかんねえ上にダセー分解の仕方すんじゃねえ!」 これまたそばに寄ってきていた東吾が山下に便乗して茶化してくる。 ポカンとしていた朝の教室はたちまち喧騒につつまれていく。 彼らを中心として。 菅野はこれを狙っていたのだろうか。床に突っ伏して尻だけ上げて静まってる彼に真相は聞けそうにないのだが。 雄介は下り坂をつくっている菅野の背をさすっており、恵はもとの場所から動いていなかった。 「ホントに嬉しそうだよねえ」 いくつか机を挟んですこし遠くのほうからニコニコと、さも楽しげに、嬉しげに。彼らの戯れる様子を眺めていた。 それは部活のとき、マネージャーをしている恵は遠く、グラウンドで声を掛け合う彼らの姿を見ている時と同じような眼差しだった。 「おーっし!じゃあみんなに聞いてみようやないの!」 山下の声が朝の喧騒の中をかけめぐる。 「はーい『二代目』がいいか『若』がいいか!みんないいと思うほうを言ってなー!」 「んなこと聞いてんじゃねえよ山下あ!」 嘉禄のツッコミは気に掛けずクラス中が声を上げた。みんな朝から今までの嘉禄を見ているので、昨日のことは気にせずに朗々と答える。昨日は絶対にありえなかった光景である。だが、これも日常的な光景のひとつであった。 「さあどっちー!!」 「若ー!」 「二代目ー!」 「若」「二代目っ」「二代目ー!」「若だよ」「うん若々」 「二ー代目ー!!」「わーかー!!」「二代目だろ二代目!」「若だって」「二代目ー!」 「わきゃー!」「それ『若』よね?」「わーかーっ!!」「にーだーいーめー!!」「若っ!」 「てめえらも答えるんじゃねえええ!!」 朝の喧騒、いつもどおりの嘉禄のクラスに嘉禄の怒鳴り声が響き渡る。そして笑い声も。 恵はニコニコと。東吾はニヤニヤと。雄介は微苦笑を。菅野は倒れながら器用にも悲笑を。山下はアハハと元気に。嘉禄の前の席の子は楽しそうに「二代目ー!」と笑顔で言っていた。 そしてクラス中が元気に安堵とともに笑っていた。 嘉禄はその真ん中にいる。 彼は笑いの中に安堵が混じっていることに気付くことはない。だってこれはいつもどおりの光景なのだから。 昨日の光景の真ん中にいた嘉禄には、それを周りから見ることなんかできなかったから。 昨日も今日も、嘉禄はいつも真ん中にいる。 結局『若』よりは『二代目』のほうが定着してしまった。同クラスの中ではどちらも人気があったのだが。 理由として、校内中どころか校外にまで『二代目』の存在が広まり、いつしか嘉禄の兄、白雉嘉祥は『初代目』と呼ばれることになった。というのが一因であった。 そのお陰というか、菅野の狙い通りではあったのか、一応『黒龍』と呼ばれることは減ったようである。 代わりに『初代目』と呼ばれることが増え、弟である嘉禄は『二代目』と、学年の違う生徒からまでも呼ばれ恐れられるようになった。 月澄高校にそういった新しい伝説が生まれたのは、白雉嘉禄を中心とした一連の事件があったからである。 fin |