訪問地もあまりなくて歩くことの多いコースだったが、JR櫟本駅まで行き電車に乗って帰途につく。雨にも遭わずまずまずの日和だったのでよかった。
  
 ここから名阪国道を超えて奈良市に向かう道が、「山の辺の道」北部コースになるが、我々は名阪国道沿いにひとつ手前の狭い山道を歩いて櫟本方面に向かう。そして右手に大きい看板のある場所で立ち止まる。明治16年頃に銅鐸が出土したという場所だ。この地は平尾山丘陵の中の竹林地帯で、農作業中に偶然見付かったものという。時期的には弥生時代中期の終わり頃(およそ西暦50年前後)と考えられている。

 銅鐸出土地から同じ道を歩くと、古びた朱色の鳥居がずらりと並び奧に「平尾山稲荷神社」がある。ここ平尾山は旧地名を「宮の屋敷」と云って、日本書紀に書かれた第24代仁賢天皇の石上(いそのかみ)廣高ノ宮や、天皇の父の市辺押磐皇子の石上市辺ノ宮があった所と考証され、また、延喜式に記される「石上市神社」は、ここにあった宮が、江戸時代の中頃、石上村の鎮守として移され、跡に今の平尾姫丸稲荷大明神が残った。そうだ。 

 さらに歩いて石上市神社前にくる。ここは元は東方の平尾山に鎮座と伝わり、平尾天神宮と称したそう。安康天皇の政事をとられた伝承地と言われる。允恭天皇の第2皇子の穴穂皇子(あなほのみこ)が、第20代天皇(在位:允恭天皇42年(454) - 安康天皇3年(456))になった。しかし、臣下を殺しその妻を奪ったことから、その8歳の子に殺されたと「古事記」にあるそうだ。  


      * 写真 中段は平尾姫丸稲荷神社  下は石上市神社

   
     豊田城址とは関係なく、再び細い道をたどっていくとやや開けた場所があり、上の方に桜が見事に咲いていたので寄り道しただけである。この上方には次に行くウワナリ古墳があるのだが、直接行けずにぐるりと大きく回って上がっていくのであった。桜の木の場所は個人の園芸場だったようだ。

  竹林の中で笹に覆われた道なき道を上がっていくと、石上大塚山古墳があった。石室のあった跡らしき長方形のくぼみが残っている。6世紀前半に築造された古墳時代後期のようで、古墳の大きさは全長127mもあるという。ということは小高い丘全体が古墳であったようだ。

  ここから、坂をいったん降りて覆いをしている大きい農園の脇を回って細い道を歩くと、ウワナリ古墳の表示があり、ここにも石室跡がある。但し、柵があり石室らしき石の上部が見え、狭い入口がある。中を懐中電灯で照らすと、石室という感じは判るが、入り口は半分は土に埋もれているようで無理をしないと入れないようだ。今は石棺もなくて誰も入ろうとはしなかったが。

 全長約128mの前方後円墳で、5世紀末から6世紀前半に築造された古墳時代後期の古墳。「ウワナリ」とは後妻のことで、先の石上大塚山古墳を「コナミ」先妻として意識して付けられたという説もあるそうだ。この付近の尾根筋を境として、南は物部氏、北は和邇氏の勢力があったが、その後物部氏の勢力範囲が進展していたことから、被葬者は物部氏一族であると推定されている。


     * 写真の中段が石上大塚古墳、下がウワナリ古墳

  


   
        
      
   



山の辺の道(北部)散策(下)