6.一刀石

 柳生は観光でよく知られる里につく、今はシーズン外れで平日でもあるし訪れる人も少ない。あまり行かないらしいが最初に一刀石のある場所へ行く。ここへも780メートルと標識があるが、結構な坂で上りはしんどいものだった。しかし、巨岩をみて疲れも飛ぶ感じだ。

 天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)というのが正式名で、戸岩山という小高い山の北麓になり、標高330メートルの山中にである。ここは鎮座する巨岩を直接拝するらしい。社辺は戸岩谷と称し「一刀石」をはじめとする巨岩、巨石が累々とする景勝地で、沢庵によって「柳生十景」の一に数えられた。

  一刀石は、全体で長さ 8m、幅7m、高さ2mの花崗岩で、中央付近で斜め一直線に割れている。上泉信綱と試合をして敗れた柳生石舟斎宗厳が3年間この地で毎夜天狗を相手に剣術修行をし、ある夜一刀のもとに天狗を切ったと思えば実はこの岩であったと伝え、現に岩面に天狗の足跡が残るという。宗厳はこの修行で無刀の極意を悟り、柳生新陰流の始祖となったという。伝説の石であるが、どうして見事に割れているのかあれこれ推測しても凡人には判らないことばかりだ。

  本殿もなく巨岩そのものを神体として崇める太古からの祭祀の形態の社で、創祀の年代など詳らかに不明。社伝によれば神代の昔、天岩戸の故事に基づいて創祀されたという。手力男命が天岩戸を開いた時にその扉石が当地に飛来したもので「神戸岩」とも称したという。当地一帯は関白藤原頼通の時代に春日大社に神領として寄進されたが、その折には神戸岩が鳴動したといい、近世初頭に至るまで皇室に慶事ある度に鳴動を繰り返したという。

 江戸時代には柳生藩の歴代藩主から崇敬され、柳生宗弘(俊方)の寄進で永2年(1705)銘の石灯籠や同俊平の寛保2年(1742)銘のものが残されており、柳生家の菩提寺である芳徳寺には寛永2年(1625)の奥書のある当神社の縁起書、『神戸岩縁起』が伝わっている。明治になって村社になり、『神社明細帳』には「戸磐谷神社」とされていた。  


 

  3.南明寺

 昼食をすませて元気になって再び歩き出す、山道は狭くなったり上り下りが多くなってくる。集落にでてお寺が見えてきた。南明寺という真言宗御室派の寺院で山号は医王山。伝承によれば敏達天皇4年(575)、百済の僧によってこの地に営まれた「槇山千坊」の一であったという(創建年代については宝亀2年・771年とも)。

 現本堂は鎌倉時代中頃の建築と推定され、境内からはこの時代をさかのぼる遺構や出土品などが見つかっていないので、実際の創建は鎌倉時代頃ではないかと推定される。本尊をはじめとする仏像は堂より古い平安時代の作であり、他所から移されたものと考えられている。本尊は木造薬師如来坐像で平安時代後期の作で、重文の「木造釈迦如来坐像」「木造阿弥陀如来坐像」もあるが、拝観は予約が必要でありひっそりと閉まっていた。  

 4.お藤の井戸

  ここをでて曲がってきた道端に、柳生宗矩とお藤の恋を伝える「お藤の井戸」がある。ある日、近くに住むお藤は、洗濯をしていると、そこへ柳生の城主の但馬守宗矩が通りかかる。宗矩はふと、お藤に「桶の中の波はいくつあるか」という問いを投げかけた。お藤、「お殿さんがここまで来られた馬の歩数はいくつ?」と訊ね返した。宗矩はその器量の良さと才気を見初めお藤を妻と迎えた。という。今は草で覆われていて井戸とも判り難くなっている。

 この後が、今回で一番急坂なところをしばらく歩く、次第に話し声も聞こえなくなり元気組と慎重組に分かれて離れてくる。石道もあり滑って転んだら大けがにもなりそうだ。幸いにも雨でないので転ぶ人いなくて良かった。そして阪原峠とあって、ようやく峠を越えて下り坂になる。こちらの石道の方が滑りそうで怖いものだ。

 5.疱瘡地蔵

 急な下り坂を下りてきたところの山道脇に疱瘡地蔵がある。地蔵菩薩立像を彫りつけた花崗岩の巨石で、下部分に27文字の碑文が刻まれている。正長元年(1428)の正長の土一揆によって徳政令を勝ち取った郷民の誰かが記念に彫ったもの。らしい。「正長元年ヨリサキ者カンへ四カンカウニヲ井メアルヘカラス」と読める。調べると、 「正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」となるそうで、「正長元年より以前の、神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」という、徳政令の具体的内容を記したものと解釈される。借金が棒引きにされたということらしいが、借金しないと生活できない、それだけ圧政で庶民は苦しんでいたということだ。
柳生街道(剣豪の里コース)                (中)