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   豊郷町の歴史をかいまだけ教えてもらったが、近江商人の凄い人たちの出身地であり、旧小学校の立派なこと、今は「けいおん」人気もあって脚光を浴びている所との認識など楽しい日であった。紹介しきれなかった他の先人のことは、機会があれば調べてみたいと思う。 
     
 
        5.豊会館(又十屋敷)

 少し雨が少なくなったと思ったらまた降りだして、結局は雨の一日となってしまった。予報は午後からよくなるだったのだが、それでも帰る頃にはいったんは傘はささない時間もあった。記念館の後は、駅方面へ行く道を過ぎて中山道を更に歩く、次は豊会館でここも豊郷出身の偉人の記念館か。

 なんかパチンコ屋さんの名前のようだが、江戸時代後期、又十(またじゅう)という商号で呉服屋を始め、後に北海道松前藩の信頼を得て漁場を開き、廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌(ふじのきへいよしまさ)の旧宅で、別名は又十屋敷というらしい。根室、千島列島の漁場から鮭鱒を捕獲して大阪、兵庫、下関に輸送して販売し膨大な利益を得たという。しかし、喜兵衛は病にかかって帰郷し44歳の若さで亡くなった。

 この屋敷は天保飢饉に見舞われていた天保7年(1836)に二代目四郎兵衛が窮民救済の一策として建築したもの。近江商人の多くが、飢饉や不況の際に寺院の建立や住宅の新築、改築などを行い、地域経済活動の活性化と人々の生活援助を行なうことが多く見られ、「飢餓普請」とか「お助け普請」等といわれた。当初は井伊家からは睨まれたが、そのお理由がお助け普請と知られて以降は、急速に井伊家との関係が緊密になり、井伊直弼もここを訪れたという。

 その後、彼の業績は代々継がれ、鮭鱒缶詰工場として発展して、「あけぼの印の缶詰」となったと聞けば理解できる。 ここは当時の書院、本屋、文庫倉庫や庭園がそのまま残されている。また鎌倉時代の作といわれている常滑(とこなめ)窯甕や、狩野永海筆による彦根屏風をはじめとする、井伊直弼から拝領の武具や調度品の数々が陳列展示されている。
 
  



       6.岡村本家
 

 夕方になり時間も少なくなって、それでも試飲できる所は欠かせない。15分ほど山側に寒い中を歩くと岡村本家がある。岡村家の7代岡村太内が安政元年(1854年)に、彦根藩主井伊大老より酒造りを命じられ8代岡村多内が創業。当時井伊家の領土であったこの湖東の豊郷吉田の地は、鈴鹿山系の豊富な名水が湧き、良質の近江米の産地、伊吹山からの寒風と酒造りに大変恵まれて酒蔵を建築した。その後150余年にわたり日本酒を造り続けている。

 銘柄は「金亀(きんかめ)」と「大星」がある。金亀は国宝彦根城の別名金亀城(こんきじょう)から酒名(金亀・こんき)を頂き、岡村家初代が由緒あるお名前を呼び捨てに出来ないということから「金亀・(きんかめ)」と読んでいる。彦根には、金亀町・金亀公園・金亀球場など金亀の名称がついた施設も多いし、金亀は松尾大社のお守りにもなっており、延命長寿を願う意味もある、という。

  大星は岡村家の屋号で、近江商人の教えでもある、勤勉、潔白、三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神を、満天の星空に曇一つなく光輝く大星(おおぼし)のような商売をと、銘柄として名付けられた。

  簡単に酒造りの工程の説明を、工場内を見ながら聞いて早速にも試飲する。3種類あってどれも喉も乾いていておいしいが、一口づつである。この後まだ帰りの歩きがあるし、彦根で懇親するにしてもそこまで1時間以上かかりそうなのだ。土産に1本買うのは忘れないが。




   
   
     
4.伊藤忠兵衛記念館

 次の訪問は、中山道を駅方向へ戻ることになるが、伊藤忠兵衛記念館になる。伊藤忠・丸紅の創始者である初代伊藤忠兵衛の百回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれた旧邸を整備し、初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品など、多くの資料が展示されている。

 江戸期1858年、初代伊藤忠兵衛が麻布(あさぬの)の「持下り」行商を開始した年を創業。その後、いったん丸紅と分割されたものの、戦時中に再度合併(大建産業)、戦後の財閥解体措置により再度両社は分割され、昭和24年(1949)に現在伊藤忠商事株式会社が設立された。という。

 初代忠兵衛は繊維品小売業を営んでいた紅長(べにちょう)の家に生まれ、17歳で西日本へ近江麻布を持って行商に出かけ、長崎出島で見た海外貿易の盛んな様子を見聞し、将来を予測した海外貿易のパイオニアとなる。そして貿易のほか、銀行・造船・保険なども手がけ、豊郷村の村長も務めている。

 明治36年に初代忠兵衛が61歳で他界し、次男・精一が17歳の若さで父の跡を継いで二代忠兵衛を襲名する。この後継者指名は、初代の妻、八重夫人で二代忠兵衛に伊藤各店の役職 には就かさず、丁稚小僧扱いで一からたたき上げる。得意先に商品を担いで訪問する「地方回り」 などの下積みを重ね”帝王学”を学び、イギリスに留学し外国商館を通さず直接イギリスと商売をする海外貿易を発展させる、今日の日本の「総合商社」の原点となった。とある。

 初代八重夫人の功績も偉大で、この地(豊郷本家)にいて江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回し、見習いとして採用された店員への行儀作法や、そろばん等必要な教育を1ケ月でみっちり教育育成を担当していた。入店後に店員が問題を起こした場合も、直ちに豊郷本家へ送られ、再教育されるていた。という。内助の功があってこその発展と言われるようだ。 
滋賀・豊郷町散策