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紹介したいことが多くて雑多になったが、豊郷町は魅力のあるところだといつもよりも意義のある散策になったのだ。この後も少し続く・・・
3.豊郷小学校旧校舎群
雨が益々激しくなる中を、豊郷小学校にくる。ここの旧校舎(現・複合施設)は、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計を行ったことと、前町長による取り壊し強行から反対運動が盛り上がり、結果的に保存されることになったことで有名なところだ。
先に横にある図書館兼喫茶休憩場所で昼食となる。ガイドさんは別のところか家に帰ったのかこの時はいなかった。豊郷でもうひとつ来て初めて知ったのだが、漫画「けいおん」の舞台となった学校ということで、けいおんのグッズや絵が飾ってあった。豊郷駅にアニメの看板があり、?と思っていたのだ。
『けいおん!』(K-ON!)は、かきふらいによる4コマ漫画作品で、それを原作としてテレビアニや映画でも製作されたそうで若者に人気のある作品らしい。まったく知らなかったオジサン族ばかりだが、熱心に漫画を描いているセーラ服姿の学生も数人いて、ここの一角に自分の作品を飾っていくのだそうだ。漫画の髪形や服装を真似た女学生?が、後でもよく見かけた。
廃部寸前の私立桜が丘女子高等学校(桜が丘高校)軽音部で4人の生徒たちがバンドを組み、ゼロから部活動を行っていくストーリーで、途中新入生が加わり、5人となった。軽音部の結成から結成時のメンバー4人の大学進学までの3年間の部活動を描いた。人気がでて、大学進学後や残った一人が活動を続けていくストーリーになっているとか。今はそどうなっているのか。
食事後は旧小学校校内を見学する。昭和12年(1937)に、伊藤忠兵衛商店専務(伊藤忠・丸紅の前身)の古川鉄治郎が、アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の校舎と講堂を建設し町へ寄贈した学校。階段の手摺りにイソップ寓話「兎と亀」をモチーフとした小さく数多いブロンズ像による装飾(階段を上るに連れて物語が進展してゆく構成)があり、当時としては珍しい鉄筋コンクリート構造の校舎だった。廊下も広くて歩き易いし下駄箱も広く傘入れもついていた。
古川鉄治郎は「国運の進展は国民教育の振興にある」と考え、老朽化した母校の移転新築を当時60万円(現在の物価で十数億円)という、私財の3分の2にあたる巨費を投じている。昭和初期の大阪城天守閣の再建費用がが約50万円だったというから、この金額がいかに巨額であったかが判る。ヴォーリスは神戸女学院大学、関西学院大学などの設計でも有名で、近江にもいくつもの建物が残っている。
平成16年(2004))に豊郷小学校が新校舎へ移転し、改築か取り壊しかで揉めたが保存されることになって、今は町の施設の一部が教室を使ったり、食堂や催し物に貸し出しているようだ。ファンが持ち寄って寄贈した「けいおん!」関連のグッズや楽器が多数展示されている部屋もある。
生憎の雨の日となったが、地元のボランティアガイドさんの案内で散策を開始、まずは阿自岐神社へ向かうが、ガイドさんは道をあまり覚えていなかったようで、戸惑いながらも行くことになる。純粋な地元でないと後で断っていたが、80歳近くで中々書物を読んでも覚えられないとも、ガイドの資料は何も持っていないしやや怪しいのだ。
1.阿自岐神社
“阿自岐”とは百済系の渡来人、阿自岐氏の名に由来するとされ、阿自岐神社のある場所にはかつて阿自岐氏の邸宅があったとも伝わる。古事記には、応神天皇の御代に百済の照古王(しょうこおう)の命で良馬2頭を連れて日本へやってきた、「阿知吉師」がこの地に住んでいたという記述も見られる。神社のある犬上郡豊郷町安食西(あんじきにし)地区の「安食」という言葉も「阿自岐」の名に由来し、食物が豊富で安住できるという意味なのだという。 主祭神は、味耜高彦根神(あじすきたかひこねの神で阿自岐氏のこと)と、道主貴神(ちぬしのむちの〈道〉とは海路を示し〈道主貴〉とはその航路の神をいう。とある。
県指定有形文化財の神社本殿を中心に東西に鳥の羽のように広がる庭園は、東池920坪(3036u)、西池770坪(2541u)という広大な規模で、大きな池の中に神社が鎮座しているかのような様相だ。いまからおよそ1500年も前、朝鮮半島から日本に漢字を伝えた王仁(わに)がこの地に招かれ、今日見られる庭園の基礎を築いたとされる。
この庭園は「池泉多島式庭園」と呼ばれる、池にいくつもの島があり、島と島とは石橋でつながれている。そのひとつの島には老杉のご神木と「千町田を養う神の清水哉」(どんな日照りでも水が涸れることなく、千町の田を潤す「神の清水」)と記された句碑がある。犬上川水系の伏流水が絶えることなくこんこんと湧き出ていたという池が大昔から“神の納涼所”として崇められ、周辺の田や畑を潤してきたということを詠んだ句だ。というが、いまは地下水事情の変化で、池の水は地下80mのところからポンプで汲み上げているそうだ。
2.先人を偲ぶ館
神社から車が多く通る道は雨の中なので厄介だ。途中から中山道にでて道沿いの先人を偲ぶ館に寄る。当地出身の豪商薩摩治兵衛を中心に、豊郷に生まれ全国で活躍した偉大な先人達8名の業績や生い立ち、成功への道程を紹介。建物は二代目薩摩治兵衛が寄付した「フランス・パリの日本館」をモチーフにしたもので、内部は先人にまつわる遺品や関係資料を展示している。8名は薩摩治兵衛・伊藤忠兵衛・古川鉄治郎・伊藤長兵衛・北川嘉平・藤野喜兵衛・村岸峯吉・碓居龍太である。
旧豊郷尋常高等小学校本館が先人を偲ぶ館の左隣にある。今は使用されず、閉ざされたままの状態である。かなり損傷が進んでいる。構造:木造2階建。瓦葺、建築面積105uで、建築:明治20年(1887)と棟札で判ったという。昭和12年(1937)改修はヴォーリズ建築事務所による。
滋賀県犬上郡に生まれた薩摩治兵衛は、丁稚奉公の後独立し、和洋木綿商「丸丁字」(横浜)を開業。外国とも幅広く取引し、一代で巨万の富を築き木綿王とよばれました。戊辰戦争では彰義隊を相手に商売して莫大な儲けをした。この孫の治郎八は、大正9年(1920))にイギリスのオックスフォード大学に留学し、ギリシア演劇などを学びつつ、「アラビアのロレンス」として知られたトーマス・エドワード・ロレンスや藤原義江などと親交を結んだ。
パリでは実家から与えられた莫大な資金を元に、高級住宅街に豪奢な住居を構えたほか、カンヌやドーヴィルなどのリゾート地を行き来する生活を送り、その一方でイサドラ・ダンカンやジャン・コクトーなどとの親交を深めた他、ニースで行われたコンクール・デレガンスに銀色のクライスラー・インペリアルの特注車と妻とともに登場し優勝を飾るなど、当時のヨーロッパの社交界にその名を轟かす。その豪快かつ華麗な振る舞いから、爵位がなかったのにもかかわらず「バロン薩摩(薩摩男爵)」と呼ばれていた。10年間で約600億円使ったという。
文化貢献では、画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男など当時パリで活躍していた日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた。また当時、フランス政府が各国に提唱して留学生の宿泊研修施設を、パリ国際大学都市に建設するように呼び掛けたものの、日本の外務省は「資金不足」を理由に出資しなかったため、西園寺公望公爵の要請を受けた薩摩が全額出資し、昭和4年(1929)に「日本館」を建設した。なお「日本館」は、薩摩の名をとって「薩摩館」とも呼ばれる。
第二次世界大戦後の昭和31年(1956)に日本に戻るが、敗戦後に連合国軍により行われた農地改革などにより薩摩家は没落し、土地や財産はすべて人手に渡っていた。しかし帰国後も日仏親善団体の「巴里会」に加わり、自ら企画した日仏プロ自転車競技大会を実施させ、この大会を通して知り合った加藤一の渡仏を支援するなど往年の人脈を発揮させていた。昭和34年に徳島県を訪れ、阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れる。その後は徳島で療養生活を送り、昭和51年に死去。薩摩次郎八の話で長々と書いてしまったが、祖父の築いた財産を使い果たしてしまった3代目は人間的にどう考えるかだ。
今回の散策は、彦根駅から近江鉄道に乗り換えて豊郷へいきました。豊郷町(とよさとちょう)は滋賀県東部の犬上郡の町。江州音頭の発祥地の一つとして言われているし、町立豊郷小学校の校舎改築問題が全国的に注目された。滋賀県内にある自治体で最も面積が小さい。
江戸時代に彦根藩領となった。京の都と江戸との中継地点で、行き交う人からの情報も集まり商業活動が活発に行われ、江戸時代から近代にかけて多くの近江商人が生まれた。藤野家は蝦夷地の開拓・交易で成功、貧民救済事業でも活躍した。
また伊藤忠商事・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛。明治以降も藤野家や伊藤家をはじめとする豪商達は豊郷の発展に大きく貢献した。村政に関わったほか、石畑郵便受取所(現在の豊郷郵便局)の開設(1901年、中島常七)、電話サービスの開始(1912年、二代目伊藤忠兵衛)、豊郷病院設立(1925年、七代目伊藤長兵衛)、豊郷小学校校舎建設(1937年、古川鉄治郎)などの功績が残っている。
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* 豊郷駅は待合所を兼ねたコミュニティハウスを併設、平日の朝のみ駅員がいるという