源八橋の近くで上の道にでて桜ノ宮駅にきて解散になる。寒いが幸いにも雨はなくて助かった。この後は、梅田にでて仲間と忘年会になるのであった。
この中を素通りして大川側に出て銀橋の方向に歩く、銀橋の袂には泉布観があり、道を隔てたところに大阪造幣局があるのだ。泉布観(せんぷかん)は、大阪府で現存する最古の洋風建築で国の重要文化財。明治4年(1871)に造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設。設計者はトーマス・ウォートルスで、完成の翌年に明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名。明治天皇自身も3回も訪れ、皇族や外国の要人を数多く迎えた。
大正6年(1917)に大阪市に移管され、修復を経て毎年春分の日前後にのみ一般公開されているが、現在は改修工事(外壁塗装・屋根補修等)が行われ、同じ構内になる旧桜宮公会堂を含む園地の活用事業も整備があり、泉布観公開はまだ先のようだ。
大川にか架かる銀橋を渡り対岸へ、こちら側の大川沿いは桜之宮公園になる。銀色の橋であることから「銀橋」と呼ばれているが、正式は桜宮橋。大川に架けられた国道1号の橋。今は、国道1号の拡張および銀橋の補修工事のために、北側に新桜宮橋(新銀橋)が建設された。新銀橋は安藤忠雄の設計で、既存の銀橋に合わせたデザインとなっている。歩道も凄く広いのだ。
橋を渡って桜之宮公園内を抜けてJR駅方面に向かうのだが、野球場あり、ビーチ用の砂場あり、ジョギングコースあり、いろいろと施設も充実しているので、都市公園としてはいい場所で、多くの住民の憩の場になっているようだ。
少し行くと青湾の石碑がある。文久2年(1862年)、煎茶を普及させた売茶翁、柴山元昭の百年忌にあたって、当時、湾の近くに寓居していた南画界の高峰、田能村直入(たのむらちょくにゅう)らが建立したもの。豊臣秀吉は、このあたりの淀川の水が特に清澄であり、小湾を設け「青湾(せいわん)」と名づけ、好んで茶の湯に用いたといわれている。桜宮付近の川水は味がよく、明治に至るまで、飲料水として市中に販売され、網島には水問屋が軒を並べていた。という今では考えられないことだ。
池上雪枝は、神道の布教を行った宗教家、社会事業家。明治16年(1883)当地でわが国最初の感化院を開くと同時に、授産場も設けた。ここで当時流行しはじめたステッキや洋傘の柄、石鹸などの製造を行いながら少年補導に尽力したが、雪枝没後の明治26年閉鎖した。墓は近くの栗東寺にある。感化院というのは、現在の児童自立支援施設になる。
龍海寺(緒方洪庵・八重墓所)は、曹洞宗の寺院。永平寺末寺。緒方家の菩提寺の関係からお墓があるが、東京の文京区高林寺にもある。緒方洪庵は大阪で適塾を開いた人物として有名。長い間大阪で活躍していた医師で、文久2年(1862)、幕府の懇請により奥医師として江戸に向かう。しかし、その翌年に江戸で亡くなった。また龍海寺には、大村益次郎が刺客に襲われ右大腿部を切断した足塚もある。大村はこの事件が元で亡くなった。
夫人八重は、内助の功で洪庵を陰から支えたという。七男六女の育児に追われ、洪庵の事業のために実家から仕送りの工面をしたり、1000人以上といわれる塾生の面倒もすべてこなしていた。姉御肌で福沢諭吉は彼女のことを、私のおっかさんのような人で、非常に豪気な人と評している。彼女の葬儀には、門下生から政府関係者から在野の名士から一般人まで2000人が参列したといわれる。
* 下の写真 下左が池上雪枝の感化院跡の石碑 小さくて見落とす
他は龍海寺の緒方夫妻の墓
寺町筋を通過し天満橋筋の交差点を渡ると、OAPのタワーや高層マンションが前に見えてくる。OAPタワー~泉布観~銀橋~源八橋~JR桜ノ宮駅がゴールになる。
大阪アメニティパークは、三菱マテリアルが三菱地所と共同で三菱金属(現・三菱マテリアル)大阪精錬所跡地を再開発した地域の愛称で約5haの地域である。略称はOAP。核となる高層ビルの名称はOAPタワー(軒高176m)。オフィス、ホテル(帝国ホテル大阪)、ショッピングエリア、高層住宅などが集約した大規模複合開発プロジェクトであった。所々に精錬所を模した建築デザインになっている。一部箇所は当時の建築物を移設・復元したものを使用している。
天神橋筋商店街を少し歩いて、天満寺町地区にくる。この辺りは秀吉の都市整備に始まり、大坂の陣後に松平忠明が市街地整理で寺院を集めた地域で、大阪を代表する偉人達が数多く眠っている。時代に翻弄されながらも、人々のため、未来のために、自らの人生を掛けた偉人たちの遺志を偲ぶ。
道に沿って成正寺(大塩平八郎墓所)~善導寺(山片蟠桃墓所)~天徳寺(篠崎小竹墓所)~寶珠院~九品寺(五井持軒墓所)~池上雪枝感化院跡~龍海寺(緒方洪庵・八重墓所)。他に妙福寺、蓮興寺、栗東寺(池上雪枝墓所)、瑞光寺、大信寺、専念寺など寺院が多い。ほとんどは一般人は入れないが、目的を述べて碑を見せてもらう。でも、ずべては無理で3ケ寺のみになった。
まず成正寺(大塩平八郎墓所)は日蓮宗の寺院。身延山久遠寺の直末寺。大塩平八郎の家元である大塩家本家は江戸時代以降、名古屋自壁町を本拠とし、身延山直末大光寺を菩提寺としていたが、大阪町奉行の与力となった分家が本家の縁故で、同じ身延山末の成正寺を菩提寺としたことによる。大塩の乱で有名な歴史上の事件だ。
善導寺(山片蟠桃墓所)は浄土宗の寺院。知恩院末寺。山片蟠桃(やまがたばんとう)は両替商升屋の番頭であったが、儒学の造詣が深く、有名な『夢の代』の著書がある。草間直方と並ぶ近世後期の町人経済学者である。文政4年没。とあるが、初めて聞いた人であった。