大川沿いから離れて滝川公園の興正寺跡、天満組惣会所跡を通過し川端康成生誕地(料亭「相生楼」門前)~大阪天満宮へと向かう
川端康成は誰でも知っている作家で、明治32年(1899)6月、この地で生れたことは知らなかった。父は栄吉(医師)、母はゲン。幼くして両親を亡くし、祖父母と共に大阪府下三島郡へ転居した。その後、8歳で祖母、16歳で祖父が亡くなり、母の実家に引き取られた。大正9年(1920)、東京大学英文科に入学し、翌年国文科へ転科し、以後菊池寛に認められ文壇への道が開けた。昭和43年(1968)にノーベル文学賞を受賞し、その3年後に、門下の三島由紀夫の割腹自殺などによる強度の精神的動揺から、逗子マリーナの仕事場で72歳でガス自殺をとげた。という。
すぐ近くは、日本三大祭・天神祭と学問の神様で広く知られる大阪天満宮。またここにある天神橋筋商店街は天満宮の参道として栄えた商店街で「日本一長い商店街」(南北に約2.6キロ)とも呼ばれいる。そして、上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」もあり、この近辺は賑わって活気づいていた。
大阪天満宮は、延喜元年(901)に菅原道真が、政治の上で敵対視されていた藤原時平により九州大宰府へ配転させられた。道真は太宰府に向かう前に同地にあった大将軍社に参詣した。そして2年後に菅原道真が没した後天変地異が多発し、朝廷に祟りをなしたとされ天神信仰が始まる。天暦3年(949)に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりという。
正月準備で境内は大きなお賽銭を入れる囲いや、初詣客に絵馬などを売る場所としてテントを貼るなど、大忙しの風景が見られた。従って、臨時の構造物があって写真写りはよくないことになった。今回の目的ではないので、ここも数分で素通りするが、登竜門の看板に少し見入った。登竜門の名前の由来は 東西唐門の両側に 鯉に龍の模様の灯篭があるところからついたらしい。
登竜門 の「竜門」とは、中国の黄河の上流にある急流の名前で、鯉がここを登ることができれば、竜になるという伝説からきている。一般には、立身出世につながる難しい関門、という意味で使われているが、本来は難しい関門を突破することが登竜門(竜門を登る)だった。初天神の日に限って、受験生を対象に難関通り抜けを祈願する通り抜け参拝がおこなわれる。という。
天満宮を抜けて天満天神繁昌亭前にでる。上方落語唯一の寄席で、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸が毎日多数執り行われている。通称「繁昌亭」。元々は天神橋筋商店街で落語会を開く予定が、定席の寄席話が持ち上がり、大阪天満宮の好意で用地無料提供もあり、大阪大空襲後60年間上方落語には無かった定席が平成18年(2006)9月日開席した。「繁昌亭」の名前は、6代目笑福亭松鶴の発案で里中央のセルシーホールで上方落語協会が主催していた落語席「千里繁昌亭」に由来する。
いい天気になった日に、大阪の西天満あたりを散策する機会があった。
まずは、大阪市役所前に集合し、近くの東洋陶磁美術館を見学する。あまり興味のない陶磁器なのだが、ボランティアさんが熱心に2時間近くも説明してくれて、現在展示の「開館30周年記念企画展:「国宝
飛青磁花生と国宝 油滴天目茶碗‐伝世の名品-」を鑑賞する。名前はあまり覚えられないが、当時の人々の生活、土によって陶磁の出来映えの大きく違うことなど断片的な知識を得た。
大阪市立東洋陶磁美術館は、 住友グループから寄贈された安宅コレクションと呼ばれる東洋陶磁コレクションを核として昭和57年(1982)に設立。高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝
2件、国の重要文化財 13件を含む約4000点が収蔵されている。
でも、館内は撮影禁止だし陶磁器を見ても説明もできないので割愛する。昼食は大阪市公会堂の地下食堂で、 意外と広くて多勢の人がきていた。名物はオムライスらしいが、一緒の人が頼んだので別のものとしてハンバーグ
にした。おいしかったし、出てくるのも早くて待つことも少なくてよかった。
食後は、中之島線で天満橋にでてここから大川沿いを少し歩く、この川沿いにはいくつかの石碑がある。今は他の設備もないので気づく人もいないが、歴史の痕跡である。ほとんどが戦争の空爆で焼けてしまったらしい。忌わしい戦争が多くの価値ある偉大な建物や設備を紛失させてしまったのだ。
ここからの内容は、「大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会」発行の「大阪あそ歩」マップを参照している。
まずは、京阪・天満橋駅~将棊島跡~南天満公園(天満の子守唄碑,三十石船舟唄歌碑)~天満興正寺跡~天満組惣会所跡と石碑後を歩く。天満橋周辺は古くから交通の要衝で、平安時代は熊野詣の上陸地、その後、八軒家浜と呼ばれ、淀川を行き来する三十石船の発着場で大いに賑わった。江戸時代には大坂は北組、南組、天満組の三組に分かれて総称して大坂三郷と呼ばれ、その中の天満組が治めた土地で、青物市場や天神祭などを支えた天満組の会所跡がある。
戦争がなかったら、空襲被害がなかったならば随分と昔の歴史も残されて、建物もいいものが伝えられたと思うと、軍部の横暴とそれを阻止できなかった政治家達の無策を嘆くしかないのだ。
* 下の写真 左上 東洋陶磁美術館概観、中は船着き場にいた鳥